書くこと

「短編第六作『五分前に終わった』をnoteに公開しました。」

短編第六作「五分前に終わった」を公開しました

どうも、kazumaです。今日は新作公開のお知らせに参りました。一昨日に脱稿しまして、4月22日より公開を開始しました。タイトルは「五分前に終わった」です。

今作はいままでのテイストとはちょっと趣向を変えてSF議論小説、というものを書きました。この作品を書くきっかけとなったのは、「本当の翻訳の話をしよう」という本の中に書かれていた「純文学と思想は合わない」という一文に引っ掛かったことがはじまりです。

これまでの書き方では小説は書けないと思った

この本は村上春樹さんと柴田元幸さんの実際の翻訳についての対談本なのですが、僕は執筆前にけっこう行き詰まっていて、偶然この本を手に取りました。「純文学らしい」ものを書こうとしてもなかなか書けない、ということに悩んでいました。

僕はこれまで作品のなかに自分の実人生で悩んできたことや考えてきたことを小説という枠組みのなかに容れ込もうとしていたのですが、それで小説というものを成立させるのは難しい、ということに気がついたのはわりと最近のことです。

読者は僕(=作者)のお喋りや身の上話を聞きにきているわけじゃなくて、物語を楽しみにきているんだから、小説のなかまで作者が出ずっぱりになっているのはちょっと……というか、かなりいただけないわけです。

僕自身、昔から自分のことをわかってもらおうとして小説を書いている面がありました。でもそれでは読者にとっての小説にはならないんだっていうことをわかるまでに十年くらい掛かりました。

たとえ小説という形式を通さなかったとしても、誰かが誰かのことを百パーセント理解する、ということはありえません。どんなに表現しようとしたって、「分かる」ことなんてないんじゃないかと思います。

そう考えたときに、そもそも小説は誰かに自分のことをわかってもらうために使うようなツールではなかったよなと思いました。べつに作者と読者がわかり合うということ、意見が一致すること、どんな風に見えるかということ、そんなことは小説の目的ではなくて。それでも、僕の中には表現することは残っていて、作者がどんな風に生きてきたかなんて、通りすがりの読者にしてみれば、厳しい言い方をすれば、どうでもいい、わけで。

そこでもう僕は小説のなかで僕自身の話をしようとするのはやめようと思いました。小説は作者をわかってもらうために書かれるものではなくて、頭でわかったりするものでもなくって、伝わるものなんだと。その間にいちいち作者である僕がいる必要はないんだと思いました。

作者は形(=文体)の中にいるんだから内容の中にはいなくてもいい

作者は作品世界をつくるために文章を書きますが、その形(=文体)として「作者」が存在することは許されても、その作品内に作者の影がちらついたり、登場人物の声を引っ込めて、自分で語り始めたりしたら、舞台で黒子が自分語りをはじめるようなもので普通にやれば場がしらけます。それはフィクションとしての物語世界を自ら壊すようなもので、私小説のような形を取らないかぎり、基本的にはご法度にあたるわけです。

でも、自分の考えてきたことや悩んだことは無駄なのか、ほんとうに小説に活かせないのか、と考えた時に、いや、そうでもないだろうって思いました。

小川洋子さんの講義に打ちのめされた話、ほんものの小説とそうでないものの見分け方

僕の書いた小説ってヘンに理屈っぽいところがある、というか、それが面白い理屈っぽさだったらいいんですけど、どちらかといえば頭でっかちな方だと自分では思います。

最近、動画で作家の講演みたいなものを漁っているんですけど、「人生に、文学を」というシリーズものの作家の講義の中で小川洋子さんが担当しているものがありました。

その中で、ほんものの小説と、そうでない小説の見分け方がある、その見分け方は簡単で、ほんものの小説は「わけがわからなくても面白い」、にせものの小説は、ただ「わけがわからない」だけなんだと。

そのあとも講義がずっと続くんですけど、僕の持っていた方法論みたいなものは片っぱしから打ち砕かれていって、変な言い方ですけど、講義が終わった頃にはほとんど泣いてしまいそうになりました。僕が作ってきたのはただのにせものだったんじゃないか、そういう思いがずっと拭えなくて。

僕の小説を読んだほとんどのひとは「わけがわからない」と言って去って行きました。数人の方が読んで、よかったよと言ってくれる時はほんとうに嬉しいんです。でも、その「よかったよ」はほんとうに作品にとって「よい」んだろうか、僕の作品を読んで、「わけがわからない」、ただそれだけで終わってしまうことが実際は大半なんじゃないだろうかと、そう思うんです。

どうしたらひとに伝わる物語が書けるのか、ひとに伝わる物語とはそもそも何なのか、僕にわかっているのは、それはおそらく頭の中の理屈や何らかの方法論によって書かれたものではないだろう、ということだけです。

たぶん、ほんとうにいい物語というのは、そういう範疇をとっくに超えてくるもの、この表現の内容が良いとか悪いとかそういう「分別」をする以前のもの、自分と他者の間にある境界線を破って現れてくる言葉、そういう風に訴えかけてくる描写や表現によって書かれたものが、僕にとって目指すべき物語なんだと思います。

でもそんな「理屈でないもの」を書くにはどうすればいいのか、僕にはまるで見当がつかないのです。どうすればただ「わけがわからなかった」ではなく、「わけはわからないけど、面白かった」になるのか。

その前に「わけのわかる」話をちゃんと書いておこうと思った

そこで苦肉の策ではありますが、まず「わけのわかる」話をちゃんと一回書いておこうと思ったんです。ちょうど短編に使えるアイデアがひとつあったので、それを膨らませて、理屈でいけるところまでいってみようと思ったのです。

ここで最初に紹介した、「純文学と思想って合わない」話がでてきて、「思想」はその理屈がひとつの概念に到達したものだと僕は思っています。僕が思いついた短編のアイデアってオカルトチックな思想と親和性があったので、それを組み合わせて何か作れないかと思いました。

でも純文学というジャンルでそれをやろうとすると必ず失敗するとわかってたので(これは村上さんと柴田さんが言ってました、思想はひとつの答えを引き出そうとするもので、純文学にはわかりやすい答えのようなものはない)、ジャンル小説でやろうと思って、SF小説の素材を使って、議論小説という形を取りました。

なぜSF小説と議論小説の形を取ったのか、今回の創作のねらい

SFはともかく、なんで思想小説にしなかったの? と言われると、僕自身には思想らしい思想なんてものはなく、そういう概念を使って考えて遊ぶことはあっても、僕自身で何かに到達して訴えたいような概念があるわけではなかったからです。ただそれを使って生み出したいシチュエーションがあって、その演出用にいくつかのオカルトチックな思想を、SF小説という容れものに入れたらどうなるか、見てみたかったというのが今回のねらいでありました。

ちょうど海の向こうでは戦争がはじまってしまって、僕にはいまだに現実感がないのですが、そういう「人類そのものが滅亡に向かう極限状態に置かれたときに、もし時間をやり直せる装置があったとして、そのレバーを引くかどうか」というのが、今回のアイデアの発端で、そのシチュエーションを生み出すためにSF小説の形を取りました。

議論小説にしてあるのは、そういうシチュエーションに置かれたときに生まれてくる思想(っぽいもの)のサンプルをいくつか用意して、そこで自分だったらどうするか、読者に自由に選んで考えてもらいたかった。作者の僕がこの思想だけが正解です、っていうようなことは絶対にやりたくなくて、議論の中でいろんな可能性が生み出されたらいい、それをエンタメのテイストで味付けして、作品としてなるべく面白く読めるように提出した次第です。

自由にアイデアを試せるという意味で、今回の短編は楽しんで書けたと思います。この次の第七作目に当たるものは、こういう仕掛けやロジックがある小説とは真逆の、そういうところにはない面白さを目指して書いていこうと思っています。できるかどうかは、わかりませんが。

まとめ 作品の感想をお待ちしております。

今回は作品の打ち明け話になりました。僕の理屈っぽい説明はどうでもよいので、新作「五分前に終わった」を読んでくだされば幸いです。感想はブログのコメント欄、note、Twitter、メール、なんでも受け付けています。もしよかったら気軽にお送りください。

では、今日はこれで。

kazuma

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