書くこと

「同人アンソロジー『蒼の悲劇』に参加した話」

同人アンソロジー「蒼の悲劇」に参加しました。2022年8月1日発売開始。

どうも、もの書きのkazumaです。今日はちょっとしたお知らせを。僕が参加した同人アンソロジー本『蒼の悲劇』が8月1日に発売されることになった。このアンソロジーは鈴村智久さん(@sempreinparo01)が発起人となって作られたもので、お声がけをいただき、寄稿という形で参加することになった。参加メンバーは鈴村さんを含め、9名で(以下、敬称略。秋杏樹、天野汐莉、三毎海、武内一馬、徳嶺瑠花、雛菊リネ、雪菜冷、森辺つゆこ、鈴村智久)、それぞれが作品を持ち寄り、編集した鈴村さんがそれぞれの作品に解説を加えるという構成になっている。

僕は「武内一馬」として参加し、「私たちはさよならといった」という作品を寄稿した。88ページから掲載されているようなので、興味のある方はチェックしてみてほしい。Amazonで予約がはじまっており、2022年8月1日から販売が開始される。タイトルに合わせたデザイナーさんのカバー装丁のデザインが素晴らしかったので、思わずほうっと息が漏れてしまった。僕の単著ではないが、はじめて紙本として印刷された文章になるので、嬉しく思っている。読み応えは十分の全506ページの大著。その分、値は張るけれど、販売ページを見るだけでも見ていってもらえばなと思う。色んな書き手さんが集まっているので、この中からいつか未来の作家が生まれるかもしれない。Amazonの概要欄にそれぞれのTwitterアカウントが記載されているので、どんな書き手が参加しているか、確認してみるのもいいと思う。

「悲劇」をテーマにしたアンソロジーと僕が考えていたこと

ざっくり言うと、「悲劇」をテーマにした同人アンソロジー本となっている。僕が鈴村さんから話を伺ったときもテーマは「悲劇」でやりましょう、とお声がけいただいた。今回の同人アンソロジーの募集欄には、

「悲劇的なもの」、「悲愴」(孤独、失意、絶望、挫折、悲哀、苦悩、飢餓など、一連の悲愴な状態、展開、心境などを主題にした悲劇的な小説。あるいは、これらのテーマにゆるく準じる小説(引用元:アンソロジー小説企画『蒼の悲劇』の御知らせ、鈴村智久

と書かれている。

僕が「私たちはさよならと言った」を書きはじめるとき、「悲劇」って何だろうなと考えた。哲学的な説明は鈴村さんに譲るとして、僕の数十年あまりの短い人生を振り返ってみると、それは別れだった。ひととの別れ。僕は、映画に出てくるようなドラマチックな別れ方(激しい恋愛をした末に片方が死んで、片方が生き残ってしまう)なんてしたことはないし、思い出せるひとの顔は片手で数えるほどもない。いつもそれは静かに、唐突にやってきて、僕の意思とは関係なく消え去っていく。

僕の一番好きなフィクションは別れの話だった

僕は現実を舞台にしたフィクションのなかでは、とくにカポーティの「ティファニーで朝食を」が好きで、一番美しい物語だと思っている。あれも別れの話で、作家志望の青年はホリーをつかまえられず、もちろんジョー・ベルもO・J・バーマンもアパートの屋上に住むユニオシさんも、ホセ・イバラ=イェーガーも(ホセに至っては故郷に逃げ帰る始末だ)、彼女をつかまえることはできなかった。そしてそのホリーもタクシーから放り出した、いなくなった猫を見つけることができず、代わりに青年がその猫を見つけることになる。誰も結ばれてはいないのに、彼らのひとりひとりは、たったひとときの間だけ、時間をともにしたホリーとの思い出を、後生大事に抱えて生きていくのである。

僕には別れていったひとが沢山ある。それは恋愛的な意味ではなく、人生で出会ってきたひとの数だ。フィクションの中で登場人物をいちいち死なせなくても、現実の別れはありふれているし、もっと単純な終わり方をする。目の前にひとがいたとしても隔たれていると感じることがあるし、会話をしていても、もうこのひととは二度と話をすることはないだろうと、わかってしまったりする。そのときにひとはもう別れているのだ。心が離れたときにはそれが別れだ。そいつが生きているか、死んでいるかどうか、空間的な距離が近いか遠いか、時間が過ぎ去っているかどうか、そういうことはちっとも問題にはならない。

僕たちはありふれた悲劇=現実の中を生きる

悲劇というと、何か特別に悲惨な状況に置かれたことを指すように思われがちだが、僕はあまりそういう風に思わない。そんな大袈裟なものを持って来なくても、人生は最初から悲劇以外の何ものでもないし、それが当たり前のことだと思っている。誰と出会うかはあらかじめわかりっこないし、その誰かと出会ってもいつかは別れる。そいつがいなくなれば、ただ覚えていることしかできないのだ。僕たちは何もつかまえることができないまま、気がついた頃には終わりを迎える。ひとりぼっちで生きていることを思い出す。そういうことを死ぬまで繰り返す。渡り鳥の燕がいなくなったあとに、残された巣を見上げるように。

いつ誰と出会って、どんなときに別れるかなんて、ほんとは最初から神様みたいなやつが決めてしまっているのかもしれないなと思う。人間が選んで決められることなんてほとんどないのだろう、もしかしたらまったくないかもしれない。それでも僕らは、こんにちはって律儀に挨拶をし続けて、さよならと言い続けるのだ。現実ではそんな言葉さえ口にせぬまま、いなくなっていく。彼や彼女や僕がいなくなったあとで、僕たちに残されるものはなんだろう。

そういうかなしみのことを僕は小説にしたかった。
「蒼の悲劇」のなかに収められた「私たちはさよならと言った」を楽しんでもらえれば幸いだ。

(僕の作品「私たちはさよならと言った」はnoteに有料公開しています。冒頭部は無料で読めるので、試し読みが可能です。「蒼の悲劇」購入の参考にしてください。)

最後にこの場を借りて、作品を編集してくださった鈴村智久さんにお礼を申し上げます。僕にとってはじめての同人参加作品となりました。楽しくもあり、ひとと組んで創作をするということの勉強にもなりました。アンソロジーに誘ってくださってどうもありがとうございました。

22.7.24 13:40

kazuma

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