立原道造詩集「僕はひとりで 夜がひろがる」を読む。

新年になって最初に読んだ本は、立原道造という詩人の詩集でした。
地元の商店街にある古本屋で見つけた本で、立原道造の詩集が置いてあるのが珍しかったこと、装丁も和装のような綴じ方が目立っていたので手に取りました(装丁は名久井直子さん)。
ひとりぼっちの夜更けに読むにはいちばんぴたりと寄り添って、突き放してくれる本だった。途中で口をはんぶん開けたまま、頁を繰り、風のようなことばが通り過ぎていった。寂しいけれど、寂しくもない夜になった。
— もの書き暮らし(kazuma) (@kazumawords) January 8, 2025
立原道造詩集『僕はひとりで 夜がひろがる』魚喃キリコ・画#読了 #立原道造 pic.twitter.com/YKlmZzXdfR
この本はPARCO出版(百貨店のパルコグループの系列出版社)から刊行されているもので、既に絶版となっている詩集です。
装画は、漫画家の魚喃キリコさんが手がけており、「立原道造」のファンであることを公言されています。
今回は「立原道造詩集 僕はひとりで 夜がひろがる」について読んでみた感想と、詩について考えてみたことをまとめてみようと思います。
「立原道造」のプロフィール

立原道造(たちはらみちぞう)という詩人をご存じでしょうか?
立原道造は、1914年(大正3年)7月30日生まれ-1939年(昭和14年)3月29日没の建築家の詩人です。
生年と没年を見て貰えれば分かるように、彼は24歳の若さで亡くなった詩人です。
第一回の中原中也賞の受賞者でもあり、受賞した翌年には世を去っています。
東京都中央区の出身で、東京府立三中で芥川龍之介と同じ中学を出、「芥川以来の秀才」と噂されるほど聡明な人物でした。
詩人として名を残していますが、元々は建築家を志しており、東京帝国大学(現東京大学・工学部建築学科)では、辰野金吾賞という優秀な建築学科の学生に贈られる賞を三年連続で受賞。
建築家としても、詩人としても、将来を嘱望されていた作家ですが、肺尖カタル(梶井基次郎と同じ病)により、24歳の若さで亡くなっています。
立原道造の詩から「詩」について考えてみる

立原道造の詩集「僕はひとりで 夜がひろがる」には、タイトルが付けられている詩もありますが、「無題」となっているものも多くあります。
たとえば、僕が読んでいて最初に気に入った詩は、
忘れてゐた
いろいろな単語
ホウレン草だのポンポンだの
思ひ出すと楽しくなる
立原道造詩集「僕はひとりで 夜がひろがる」
p.10より引用 PARCO出版 単行本(2010刊)
というもので、言葉の語感そのものが持つ面白さに着目した詩です。
もちろん、立原道造は優秀な学生ですから、もっと難解なことも考えていただろうし、様々な言葉も、たぶんいくらでも知っていたはずです。
でも、そのなかで「ホウレン草」と「ポンポン」という言葉を選んでくる自由さが、感覚的に心地よいと感じる。
他にも、
胸にゐる
擽つたい(くすぐったい)僕のこほろぎよ
冬が来たのに まだ
おまへは翅(はね)を震はす
立原道造詩集「僕はひとりで 夜がひろがる」
p.16より引用 PARCO出版 単行本(2010刊)
は、「コオロギ」について歌うのは通常「秋」であるところを「冬」に持ってきて、コオロギさえも鳴き止む季節になったのに、自分の胸のうちには琴線に触れるものがあることを歌っています。
「無題」でタイトルさえ付いていない詩、であることから、おそらく心象描写のスケッチかもしれないけれど、たった四行の詩のなかに、心を動かされるものがある。
もちろん、胸のなかに「こほろぎ」は現実にはいないわけだけど、こう書かれると、確かに自分のなかにも「こほろぎ」なるものがいるんじゃないか? って思わせる説得力がある。
もうひとつ、引用すると、
ゆくての道
ばらばらとなり
月 しののめに
青いばかり
立原道造詩集「僕はひとりで 夜がひろがる」
p.20より引用 PARCO出版 単行本(2010刊)
単語で言うと、たった五つか六つの組み合わせです。
何かを説明しているわけでもなく、通常の文章の読み方をすると、意味が通らない(はず)。
でも、詩として読んだとき、なぜか、たったひとりで途を行く、侘しいような感情が湧き上がってくる。これは何なのか?
言葉の区切り方も、リズムがあって空白のなかでさえ、呼吸をするところ(ブレス)がちゃんと分かるような。
詩は音楽に近いところがある、と言われますが、空白の区切り方さえも、楽譜の休符のような意味があるものに見えます。
小説の散文ではこういう表現は難しい。一文としてある程度のまとまりが必要で、意味が取れるほど「固まって」いないと表現として成り立ちにくい。
詩は「言葉の形」を意識させたり、「言葉」の持つ「語感」、呼吸などの「リズム」、組み合わせの「イメージ(印象)」を、たった五つか六つくらいの言葉の連なりで表現してしまう。
詩は柔らかくて、小説の散文はもう少し硬質な印象が、僕の中にはあります。
皆さんは、どのように詩と小説を考えておられるでしょうか。
小説の散文と詩の違いはどこにある?

自分なりに詩について理解を少し深めたいと思って、詩作のまねごとをやっています。
というのも知人が詩について詳しかったからで、作ったものをときどき見て貰っています。
noteでは十番目の詩となる「通話」という作品を書いてみました。

あるとき、過去に作った詩(と僕が思っているもの)を知人へ見せると、「これは詩じゃないな、小説だ」と言っていました。
そのときから「小説の散文と詩の違いはいったいどこにあるのだろう?」という疑問が生まれました。
どちらの表現もやってみて気が付いたことは、小説と詩では「言葉の使い方」が違う、ということです。
立原道造にとっての「詩」とは?

立原道造の詩の話に戻りますが、彼は「詩」をどのように考えていたのでしょうか?
「僕はひとりで 夜がひろがる」という詩集の52頁に「詩は」という詩があります。
ちょっと引用しながら、読み解いてみましょう。
「詩は」
その下に行つて、僕は名を呼んだ。詩は、だのに、空ばかり眺めてゐた。
*
こはい顔をしてゐることがある
爪を切つてゐることがある
詩はイスの上で眠つてしまつた。*
あかりの下でひとりきりゐると
僕は ばかげたことをしたくなるあゝ、傷のやうな僕、目をつむれ。風が林をとほりすぎる。
おまえはまたうそをついて、お前のものでない物語を盗む。
それが詩だといひながら。*
言葉のなかで 僕の手足の小さいみにくさ
*
或るときは柘榴のやうに苦しめ 死ぬな
*
詩は道の両側でシツケイしてゐる
*
僕は風と花と雲と小鳥をうたつてゐればたのしかつた。
詩はそれをいやがつてゐた。*
夜の部屋のあかりのなかで詩は
目をパチパチさせながら小さい本をよんでゐた
それは僕の書いた小さい本だつたが
返してくれたのを見るとそれに詩が罰点をつけてゐた立原道造詩集「僕はひとりで 夜がひろがる」
p.52-55より引用(前半のみ抜粋)PARCO出版 単行本(2010刊)
これが「詩は」という、立原道造の詩の前半部になります。
詩、というのは、もちろん人物ではないのですが、この「詩」のなかで、立原道造はまるで「詩」という言葉を擬人的に使っている。つまり「人」のように見立てているわけです。
そういう仮説でもってこの詩を読んでいくと、
①「詩」は、わざわざその下へ、僕が呼びにいっても、「僕」には関心がない。
②「僕」がこわい顔をして、爪を切っているとき、「詩」は眠る。
③「僕」は、自分のものではない物語を盗み、それを「詩」と呼んでいる。
④言葉の世界へ分け入っていくとき、現実の僕の手足は醜い
……といった特徴が読み取れることかと思います。
まるで謎かけのようですが、この詩全体の文章の印象を尋ねられたとしたら、立原道造は「詩」というものをまるで実際の恋人のように「見立てて」書いているのではないか、という印象が僕のなかにはありました。
実際、「詩」という部分を、立原道造の「恋人の名前」(たとえば、仮に、うた、としましょう)として置き換えて読んでも、まったくふつうに成立する詩です。
「詩」を「恋人の名前」と交換可能なもののように書いていることから、その二つの特徴に似通ったところがあることに着目して書いた詩だと僕は考えています。(あくまで僕の読み方ですが)
ところどころ、立原道造の「詩」に向かう姿勢が垣間見える(「或るときは柘榴のように苦しめ 死ぬな」)ところがあります。それは直接、書いているのではなく、あくまでも間接的に描いているものですが。
あるいは、実は詩について語っているように見せかけて、恋人への思いを綴ったものなのか? という仮説も浮かんできます。
漱石-芥川-堀-立原は、師弟関係にある話

芥川龍之介と立原道造の関係性について少し調べていると「芥川・堀・立原の話」という吉本隆明さんが話している文章をネット上で見つけました(ほぼ日刊イトイ新聞に掲載。「吉本隆明の183講演」)
夏目漱石の晩年の弟子が芥川龍之介であることは有名な話ですが、芥川龍之介の弟子にあたるのが、堀辰雄です。
そして、堀辰雄の弟子筋にあたるのが、立原道造ということは、ご存じでしょうか?
つまり文学者の師弟関係として漱石からはじまって「漱石-芥川-堀-立原」のタテのラインは何らかの文学的な問題を継承してきた可能性がある。

吉本隆明さんは、「芥川・堀・立原」の三人の共通点として、東京の下町で育ったこと、三人に共通する作品上の特徴として「匂い」に独特な感性を持っていたことを講演のなかで話されています。
そして漱石が解決できなかった問題を芥川が引き継いで、その問題点から真正面に向き合うのではなく、ずらしていった、と仰っています。
芥川は自死で最期を遂げていますが、弟子筋にあたる堀辰雄も同じように結核となり、芥川が感じていた問題点をもう一度、ずらして作品のなかに描いた。
そして堀辰雄が格闘したものを立原はべつの形で退けて、人工的なところに詩の表現を見出していった。
各時代に生きる文学者が、問題点をずらして、ずらして、少しずつ傍流の方へ進んでいった、という流れがあると仰っています。
以前、デルモア・シュワルツの「夢の中で責任がはじまる」を読んで、
デルモアが感じていた問題意識は、実はトルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」に受け継がれているのではないか? という仮説を立てたことがありました。
「夢の中で責任がはじまる」(家族への盲目的な肯定を拒絶する「僕」)→「ティファニーで朝食を」(猫に「名前をつける」ことを拒み、誰とも家族になろうとしない、ホリー・ゴライトリー)

ある作家に「私淑する」という言葉があります。
べつに作家同士に特別な接点はなくとも、先行する作家と後発の作家で、問題意識が受け継がれているように見えることがあります。
前の時代の作家が引き受けて乗り越えていくことができなかった問題を、「継承しながら、べつの表現の形を見つけていく」。
その繰り返しこそが文学じゃないのか、と思うことがります。
お気に入りの作家を見つけたら、その作家が何を問題としていたのか、探してみると発見があるかもしれません。
2025/01/23
kazuma
(了)