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中村文則『列』を読む。

kazuma(管理人)
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こんにちは、もの書きのkazumaです。つい先日、週末の予定が空いていたので、地元の新刊書店に立ち寄って中村文則さんの『列』を購入しました。

 『列』が発売されたのは2023年の10月5日で、単行本の発売から約2週間が経ちました。ちょうど先週末に、読了したところなので、今回は中村文則さんの『列』を読んだ感想を綴っていこうと思います。

中村文則さんの『列』を手に入れた経緯

 前回の記事(【2023年10月版】最近の文芸誌を取り寄せてみた件」)でもご紹介したように、2023年11月号の「群像」には、中村文則さんの『列』が刊行された記念特集が取り上げられていました。

 そこで掲載されていたインタビューで、新刊が発売されていたことを知り、中村さんの著書を書店で手に取りました。

 僕が中村文則さんの本を読みはじめたのは、2002年に新潮新人文学賞を受賞されたデビュー作の『銃』で、2022年に中村さんの作家生活は20周年を迎えられています。

 デビュー後に河出書房新社から発売された『銃』の文庫版を読んだのが、僕の学生時代の純文学との出会いのひとつであったと思います。

 それから『何もかも憂鬱な夜に』や『悪と仮面のルール』『私の消滅』『教団X』といった中村さんの作品を読むようになりました。

 『銃』の発表から20年が経って、中村文則さんがどのような小説に行き着いたのか興味があって、今回、「列」の新刊を手に取ってみることにしました。

 群像のインタビューを読んだとき、何となくこれまでの作品とは異なる書き方をされているのではないかという印象を受けました。インタビューのなかでは『安部公房』『カフカ』の名前や、「シチュエーション」といった言葉が並びます。

 発売からまだあまり期間が経っていないので、作品のあらすじは最小限に、読んでみた所感を書いておこうと思います。

※未読の方で、内容についてまだ知りたくないという方は、ブラウザバックしてください。『列』の読後にこの記事を読むことを推奨します。

中村文則『列』を読んだ感想


 今回の『列』という作品は三部構成になっていて、『第一部』『第二部』『第三部』の三つに分けられています。

 第一部を読んだときに、これはどうも僕が知っている中村文則さんの書き方ではないなと感じました。つまり、今までの中村さんの作品には見られなかった書き方で書かれている。

 中村文則さんといえば、『銃』がどうしても鮮烈に思い浮かぶのですが、全体を読み通したときの感想としては、これは『銃』の問題点にまで戻ってきて、それを乗り越えようとした話ではないのかと、いち読者として思いました。

『第一部』では、なぜか人々が『列』に並んでいて、誰もこの『列』が何なのか、分からないままに並んでいる。そういうシュールなシチュエーションから物語がはじまります。

 この『列』というモチーフを作品に持ってきたのが、まず惹かれたところでして、これはいまの日本に漂っている空気感みたいなものをうまく言い表しているんじゃないかと感じました。

①「列」のシチュエーションが生み出す「序列」に潜んだ「悪」

 たとえば、会社での年功「序列」や、SNSのインフルエンサーとフォロワーの「列」、流行りの店や新作商品の販売に並んでしまう「列」など、日本ではこうした『列』のなかにいることを、誰もが受け容れざるを得ないという背景があります。

 列に並ぶ行為は日常茶飯事で、なかにはそれを進んで引き受けて並んでいるように見えるひともいる。

 アマチュアのもの書きの世界も、あまり他人事ではなくて、公募に受かったとか受からないとか、こっちの小説や書き方が優れているから偉いとか、そういう序列に執着するひともいます。

 帯には、「誰も列から逃れられない」と書かれていて、この序列の意識はどんな分野にも漂っています。中村さんはこの「列」が生む「序列」の意識を作品のなかで「悪」として捉えられたのかなと、僕は思います。そして、それは避けられない「悪」だと。

 単に人々が列に並びつづけるだけの話かというと、そうではなくて、第一部でシチュエーション小説として語られたことが、第二部と繋がっていて、おそらく第一部を読んだあとと、第二部を読んだあとでは、この小説の印象はがらりと変わってしまう。

 この『列』に並んでいるシチュエーションをどう解釈するか、というのが、ひとつのポイントになってくると思います。

②ドストエフスキーの『地下室の手記』との共通点

 第二部では、列に並んでいた男が、実は猿の研究を行う研究者であったことが明かされ、ここで中村さんが得意とするテーマである、『悪はどうして生まれ、どのようになされるのか』という「悪の問題」が出てきます。

 『列』を終盤まで読んで思い浮かべたのは、ドストエフスキーの小説にある『地下室の手記』です。

 ドストエフスキーの『地下室の手記』には、善人になろうとしても、どうしてもなることができない、自意識過剰で閉鎖的な生活を送る男(ネクラーソフ)が出てきます。

 この猿の研究者である主人公の男も、本業である研究者としては名をなすことができず、周囲の出世競争から追い抜かれ、教え子である大学院生にも不遜な態度を取られながら、自身の研究を続けています。

 やがて研究者としてのポストも失い、周りとの人間関係が破綻して、それでも自身の体面を保とうと雪山を移動する猿たちの研究に没頭しようとします。

 次第に男は孤立を深めていき、緩やかな破滅へ向かっていくのですが、この男に「悪」をなす絶好の機会が訪れます。

 この辺りの描写が白眉で、まさに中村さんが描く文学の真骨頂ともいえる箇所なのですが、破滅に向かう途上にある人間そのものが、「悪」をなすことによって、この序列をひっくり返せる可能性があるとき、どう振る舞うか、ということが描写されています。

③『列』は『銃』を乗り越えるための二十年後のアンサーか

 この悪を「なす」か「なさない」か、という薄氷を踏むようなぎりぎりの地点にいる人間の心理が描かれており、このときに思い出したのが、やはり中村さんのデビュー作である『銃』でした。

 ここに来て、デビュー作の「銃」のときの、拳銃を拾ったことによって悪をなしうる可能性を持った主人公の意識が重なるように見えました。

 そして『列』は、『銃』に対する二十年後のアンサーとして、それを乗り越えるために書かれたものであるように見えるのです。

 すなわち、「悪をなしうるにもかかわらず、なぜそれをなさないか」。

 人並みの幸運に恵まれることもなく、「善人にはなれない」「幸福でもない」と感じている人間が、それでも悪をなさずに踏みとどまろうとするとき、何を頼りとするのか。

 その可能性が示されているのが、第三部です。

 『列』の新刊の発売から間もないため、レビューはここまでとします。

 中村文則さんの作品を『銃』のときから追いかけてきましたが、読んでいてよかったと感じられる一冊でした。

 (了)

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