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「ポメラ日記17日目(カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』)」

kazuma(管理人)
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アナログベースでものを考えてみることについて

最近はノートPCやポメラといったデジタルデバイスに触れる時間が長くなってきた。

在宅という仕事のこともあるけれど、いままでよりもディスプレイを眺めている時間が増えたので、何だか気詰まりがする。

昨日の夜はカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を読んだのだけど、後半から一気に引き込まれて読み終えることになった。

電子書籍やkindleなども出て便利になったけど、僕は相変わらず紙の読書がいいなと思って結局戻ってきてしまうのだ。

TwitterなどのTLを見ているとポメラで直接書いていたり、あるいはノートパソコンで執筆しているというひとが多い印象がある。

僕はずっと書きはじめた当初から、小説は大学ノートに書いて、ポメラで清書するという形を取っている。ポメラがなかった頃は、Windowsに一太郎というエディタを入れて書いていた。はじめの第一稿はずっと手書きでやってきた。

この間、トルーマン・カポーティについての記事を書いた。そのときに調べていたら、カポーティも第一稿と第二稿は手書きで書いていたらしい。第三稿になってから、ようやくはじめてタイプライターで清書していったそうだ。

原稿も決まったクリーム色の用紙があって、BLACKWING602という鉛筆を使っていた。相当こだわりのあったひとだというのは確かだけど、アナログの方がアイデアを思いつきやすいということがあるんじゃないかと思っている。

小説を朝に書く、あえてアナログの時間を取る試み

最近は、ライターの原稿で延々と画面に向かいっきりなので、中々書く時間が取れなくて困っていた。結局、小説など好きなものを書けるのはごく限られた時間しかなく、ライターの原稿の方で消耗してしまっているので、朝に書くことにした。

手元にスマートフォンなどがあると意識が取られやすいので、なるべく朝の時間にはスマートフォンやノートPCなどのデジタルデバイスは使わないようにしている。

自由に今後の方針や考えたことを書き込めるノートを作っていて、僕はそこに思いついたことを片っ端から放り込んでいる。

手書きだとタイピングより時間が掛かるという面はあるけれど、書いたという記憶を自分に刻み込んでいる感覚がある。

デジタルは一見早いように見えるが、生まれてくる文章が軽くなってしまう気がする。なので、ブログなどの実用文はポメラかMacの直打ちで、小説は手書きののちにタイプする、というパターンを使い分けている。

デジタルを使わない時間を作って、代わりに手書きでものを書いたり本を読んだりする時間を作ると、精神的に行き詰まることが少し減った気がする。

ついスマートフォンなどに手を伸ばしがちだけど、あえてそこから離れる時間として、アナログな手書きや読書、散歩してみたりするのがよかったりする。

僕はここ一ヶ月ポメラのスポットを探し回っていて、公園などを散歩する機会がよくあった。遠くまで歩いて疲れてしまい、日が暮れて文章が打てなくなるなど、かなり効率の悪いことを何度もやった。

結果として20分くらいのお散歩圏内がちょうどいいことに気が付いて、いまでは夕方くらいになると近所の公園や喫茶店にそそくさと出かけている。

昨日読んだ、カズオ・イシグロの本『わたしを離さないで』について

さっきも書いたことだけど、昨日はカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を読み終えた。いままでずっと手元に置いてはいたのだけど、いつも途中で読むのをやめてしまっていた本だった。

もう五、六回は読みかけて止めるということをやっていた。いくら文章を読むのが好きだと言っても、読めるタイミングと読めないタイミングがある。ようやく機会が巡ってきたこの本は、自分の境遇と重ね合わせることもあったりして、まさにこの時に読んで良かった本だった。

ざっくりとしたあらすじは、語り手のキャシーが幼少時代にへールシャムという学舎で過ごした日々を語る、というもので第一部では幼少期、第二部ではへールシャムを卒業したあと、第三部では登場人物たちのその後を描いている。

このへールシャムって言うのは寄宿学校なのだけど、何の寄宿学校であるかはわざと書かれていない。

カズオ・イシグロの話術の巧みさ、撒き餌のように続きが読みたくなる文章

カズオ・イシグロは話術が巧みな書き手で、読者が掴めていない真実をちょっとずつ小出しにしながら、うまく物語の中に囲い込んでくる。

読者がウサギだとしたら、目の前に小さな餌が置いてあって、それを一粒一粒追いかけていったら、見事に知らない世界に迷いこんでしまいました、ということを絶妙なタイミングで仕掛けてくるのだ。文章が置かれるべき位置に置かれている。

小説を書いたことがあるひとなら分かると思うんだけど、作者は物語の設定についてはすべて知っているわけで、読者に謎を隠しながら書いていって最後に明かすということをやる場合、どういう風にほのめかすか、どのタイミングで謎を明かすかというのは結構難しい。

この辺は単純にテクニックの話で、内容の評価とはまったく関係がないのだけど、その小出しにする具合というのがこのひとの場合は名人芸みたいになっている。

「浮世の画家」を読んだときにも感じたことだけど、途中までは全体像がまったくつかめない森の中に読者をぽんと放り込んでおいて、最後の最後で、すべての場面が数珠つなぎのように繋がっていく。その落差に読み手はやられてしまう。

手品師なんかと一緒で、隠していることをまったく気づかせないまま目の前で物語を進行させていく手際のよさは、語りの巧さというほかない。

オブラートに包まれた状態で育てられた子どもたち、意図的に真実を隠す大人たちの葛藤

この物語には三人の主要な人物が登場する。語り手のキャス(キャシー)とルース、そしてトミーだ。三人はへールシャムの寄宿学校時代からの同級生で、ある意味では彼らは運命をともにして生まれてきた子どもたちでもある。

ネタバレを含んでしまうので、この作品については改めて別の記事を書くけれど、へールシャムの生徒たちはある目的の元に集められており、しかし生徒たちはその目的が何であるかは、具体的に知らされていない。

周囲の大人たちによって意図的に真実が隠され、オブラートに包まれた状態で育てられている。

キャスとルース、トミーはそれぞれのやり方で真実を知ろうとしたり、あるいはそうではないまがい物を信じ込まされたりして生きていくわけなんだけど、この話ってわりと現代でも起こりうることじゃないかと僕は思っている。

というか、僕の身にも似たようなことはあったのだ。それも僕だけが特別にそういう状況になっているかというとそうではなく、案外身近なところで巻き込まれている人もいるかもねって思っている。

もちろん小説の中の出来事その通りのことが現実世界で起こっているわけではない。でも登場人物を自分の身に置き換えて読むと、どうもキャスやトミー、ルースの立場が二重写しになるというか、身につまされる。

三人とも、自分の意思とは無関係に逃れることのできない網目のなかに囚われていて、これは救われない状況に放り込まれた人間の話だ。彼らがいつ、こんな難しいシチュエーションに放り込まれたのかっていうと、生まれる前からだ。

「わたしを離さないで」が書かれたのは2005年のことだから、ちょっと先の未来で起こる問題意識を描いていたのかなと思う。

「炭鉱のカナリア」と同じで、優れた作家の作品は十数年先に起こることを予見していたりする。社会に表面化して意識されるようになるのは、いつだって何年もあとのことで、いまこの日本でニュースとして流れていることと、「わたしを離さないで」で描かれていることは、深く掘り下げていくと繋がっていると僕は思っている。

不可解さの中で生きることを運命づけられた生き物

僕はこの小説を読んで、救われない状況をきちんと描いてくれていることに却って拍手を送りたくなった。現実の僕たちは誰もハッピーエンドにはたどり着けない。解けないパズルを神様に渡されて、ピースがいつまでたっても見つけられないでいる。

足りないものは足りないままで、謎は謎のままで終わっていく。でもそれは人間にとってはごく当たり前のことだったかもしれないと思う。僕たちはそういう不可解さの中で生きることを運命づけられた生き物のように思うから。

2022/10/14 21:57

kazuma

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