ポメラを持ってコメダ珈琲店に行ってきた話
もの書きのkazumaです。実はつい先日、ポメラを持ってコメダ珈琲店に行ってきました。今回はそのレビューについてお届けしたいと思います。
「ポメラでコメダ」は以前からポメラニアン(ポメラユーザー)界隈で話題となっていて、僕も行ってみたかったのですが、近隣にはコメダ珈琲の店舗がなくて困っていました。ちょうど週明けに友人と会う約束があったので、一緒に街を歩いていたところ、偶然、コメダ珈琲店の看板を見つけてしまいました。友人は僕が「ポメラでコメダ」をしたがっていることは理解していたので、せっかく見かけたからには入ろう、ということになりました。
コメダ珈琲店は執筆にベストな環境だった
僕が入店したのは中型店舗ほどの規模のコメダで平日の夕方に訪れたのですが、そんなに混み合っている印象もなく、適度にひとが埋まっているという感じでした。テーブルの間隔が広く取られているため、隣り合った座席同士に一定の距離があるのもいいポイントですね。
店に入ってから好きな席に着いていい、と言われたので、店を一周ぐるっと見渡してから窓際の席を選びました。ソファと椅子で向かい合うような座席だけでなく、ちゃんとお一人様用の席もまとまって用意されているのが僕としては気に入ったポイントです。
窓際の席も本来は一人用の座席だと思うのですが、僕は窓際から通りを眺められる席が好きなので、友人と隣り合わせで座ることにしました。ウェイターが水と暖かいおしぼりを出してくれて、座席の間にあった間仕切りをさっと抜いて、ちゃんと二人用の席にしてくれたことには驚きました。コメダの木製の仕切りってすぐに外せるんですね、大抵はプラスチックの取れない仕切りがあったりしますが、この辺りにも驚いた次第です。
しっかり座席ごとに電源が取れるようになっていて、フリーWi-Fiも用意されており、パスワードなども分かりづらい位置にあるのではなく、目の前に書かれているのでこれはありがたいなと思いました。友人はスマホの通信量を使い切っていたためか、ここぞとばかりにスマホのゲームをダウンロードしていてご満悦の様子です。
ベルを鳴らすと注文を取りに来てくれるので、ウインナーコーヒーとカツパンを注文しました。Twitterのタイムラインではコメダの洗礼を受けているひとが多く見受けられたので、友人と一緒にカツパンを選んで半分にすることにしました。メニューの写真で見る限りは普通のサイズに見えたので、「何だ、そんなに変わらないじゃん」と思っていたのですが、届いたものを見て絶句しました。これは明らかに一人前ではない。

ウインナーコーヒーはホイップがたっぷり、これでもかというほど乗せられていて、スプーンでちょっと掬いながら飲むことにしました。ホイップの甘みと珈琲の苦みが絡み合って、絶妙な味です。豆菓子も出てきたので珈琲→豆菓子→珈琲→豆菓子……、とやればおいしさが続く無限ループに入りました。珈琲をちびちび味わいながら、往来の道行く人々を何とはなしに眺めているのはいい気分です。普段は壁に向かって延々とタイピングしているような人間なので、こういう日があってもいいなと思いました。

喫茶店ポメラのファイナルアンサーはコメダ珈琲だと思う
気もそぞろになってきたところで、お待ちかねのポメラを鞄から取り出します。テーブルの上には飲みかけのウインナーコーヒーやカツパンがありますが、それでもまだ十分にポメラを置けるスペースがあります。広さのある木製テーブルに、ソファのようなふかふかの座面の椅子、電源完備、美味しい珈琲が手元にあって、外の景色も窓越しに見える……。

お散歩ポメラはもう三ヶ月ほどやっていて、これまで色んな場所を巡りましたけれど、これ以上の環境ってもうないんじゃないかと。喫茶店でポメラを打ちたければ「ポメラでコメダ」が、ベストアンサーになるような気がします。コーヒーカップのセットやグラスなんかも洒落ていて、持って帰りたくなるほどでした。
余談 J・K・ローリングは珈琲一杯で何時間も粘って喫茶店で執筆した
ところでちょっと話は変わりますけれども、この間、ライターの作業で調べているときに「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングが通っていたという喫茶店が海外にあることを知りました。作者のJ・K・ローリングの生い立ちを辿ると、かなり壮絶なものであったことが分かります。母との死別、恋人との破局、住む場所にも困りながら、生活保護を受け、それでも書くことを諦めませんでした。一時はうつ病に苦しみ、死ぬことさえ考えたといいます。そんな彼女がコーヒーを一杯だけ注文して、何時間も喫茶店で粘って執筆していたというエピソードを聞くと、書くことって何なんだろうと思います。
以前にバルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』という本を読みました。ほんとうにものが書きたかったら、生活のすべてを書くことに捧げなくてはならないということが書いてありました。そしてそれがもたらす結果については執着してはならないと。二十世紀のアメリカ文学の作家にトマス・ウルフというひとがいます。彼も暇さえあれば原稿を走り書きし、冷蔵庫の上で立って書いたのだという逸話が残っています(彼は長身の大男だった)。そういう作家のエピソードのひとつひとつを目にするたびに、僕はどこまで自分の身を削って書いただろうかということを考えます。
「ポメラ」は書くための道具で、執筆を助けてくれるデバイスです。でもそれがあるからといってものが書けるようになるわけじゃないなと思います。これさえあれば何でも書ける魔法の道具のように見えるけれど、文章を書くのはやっぱり書き手自身なんです。僕も作家に憧れた身で、これまでに色んな執筆道具を揃えて、もの書きの環境だけは不自由なくできるようにしてきました。でも、環境がよくなったらいい文章が書けるようになるのかというと、おそらくそうではないんです。
僕は「ポメラ」を買ったことを後悔したことはありませんし、こんなに優れた執筆デバイスがある時代に生まれてきてよかったなと思います。「ポメラでコメダ」をするのも純粋に楽しかったです。執筆には最高の環境だと思います。でも、もし隣にJ・K・ローリングのような書き手が座っていて、一心不乱に書き続けているとしたら、たぶん彼女の方がひとを惹きつける文章を書くだろうという気がします。
ひとがものを書けるかどうかっていうのは、「環境」が大事なことのように思われがちだけど、たぶんそれってものを書くための条件のひとつに過ぎないと思っています。いくら最新のデバイスを揃えて、高価なペンやノートを買って、洒落た喫茶店の椅子に座って、これ以上ない執筆環境を整えられたとしても、それでいい文章が書けるかというと、まったく別の話だと思います。
それは物理的にものが書きやすくなったっていうだけのことに過ぎなくて、書くことの本質は書くことのなかでしか見つからないと思っています。執筆道具は書くことのスタート地点には立たせてくれるけれど、それが書くことのすべてではない。「ポメラでコメダ」の執筆を終えて、思ったのはそういうことでした。
2022/11/17 21:07
kazuma
お知らせ noteで『ポメラ日記』を再開してます。
noteで「ポメラ日記」を再開しました。今回の『ポメラでコメダ』にも触れているので、よかったらこちらもお読みください。noteは作品と雑記ネタ、本家のkazumawords.comはより深く掘り下げた創作・執筆関係のトピックを取り上げていこうと考えています。