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一馬日報(手記) 文芸活動記録

『妄想』と『物語』ることの狭間で。

二十三時の作業机。

こんばんは、kazumaです。身の回りのごたごたがようやく落ち着いてきたので、夏のお便りを書きます。近況ですが、諸般の事情でアパートから去りました。またもう一度出直すことになりそうです。小説の執筆は何とか続けていました。十月の群像に出すつもりです。小説の完成が、今年の夏の宿題になりました。

この三ヶ月間、かなり目まぐるしい変化が内面で起こっているのを感じていました。といっても傍目に見て何かが劇的に変わったという訳ではないのですが。メランコリックなところは本当に相変わらずです。しばしばベルトの輪っかを結んで梁に引っかけたくもなりました。いつも通りの夏でした。公園通りを歩けば、蝉の声が聞こえます。昔は何気なく聞いていたその鳴き声が、いまでは妙に響いて聞こえます。まるで目の前に映るすべての景色をかき消して、忘れ去らせてくれるみたいに。

引っ越しの荷物が届いた部屋を整理していると、昔に書いた小説を見つけました。大したものではありません。昔、文学学校に半年だけ在籍していたときに書いた習作のようなものです。クラスの担当者が丁寧に赤線を引いて、添削が書き込んでありました。

初めての授業で、僕は一夜漬けで書いた適当な短編を持って行くと、これはいいと言ってくれるひとが何人かありました。三ヶ月後に、当時悩みながら作った課題の提出作品を持って行くと、その場にいた十人中十人が、訳が分からない、何が言いたいのか分からない、あなたの文章には中身がない、と言いました。飛び入りでクラスに参加していた十代くらいの少女が、ほとんど怒ったような剣幕で、あなたはどういうつもりで小説を書いているんですか、と言いました。実際にはもっとひどい言葉でした。僕は大して意味のない返答をしました。添削には、文章にひとりよがりな部分がある、と書かれていました。他の些末な修正部分は笑い飛ばすことができても、そこだけは妙に冗談では済まされない何かがありました。僕の書いた小説には、致命的な欠陥があるようでした。

あるひとは、これでは小説でも物語でも何でもなく、ただのお話に過ぎないと言いました。言われたときは受け入れ難かったですが、それが事実でした。そう言って貰ったことに感謝しています。僕ははじめてペンを握ったときから八年経っても、まともな小説ひとつこさえたことのないもの書きでした。どこにでも、いくらでも転がっている作家志望のなれの果てでした。

ここでピリオドでも、カンマでも、読点でも、句読点でも、閉じ括弧でも、了でも、何でも打ってしまえば楽になれたんでしょうが、どうにもノートの頁を繰る癖と、Enterキーを押下する癖は直りそうもない僕は、かなり底意地が悪いので、万年筆のペン先とキーボードの上でひとり悪あがきを続けています。

他の人にはまるで繋がっていないようにみえる言葉の鎖も、僕の目にはちゃんと繋がっているようにみえていました。ただそれが、自分の目にはそうみえるというだけではなくて、誰かにもきちんとそうみえるように書かなくてはならなかった。

『妄想』と『物語』の違いって何だろうと思います。

両方とも現実にはないものです。でも、性質はまるで違います。『妄想』の中に、他者は本質的に存在しません。それは閉じていて、個人にとって都合のいいように歪められた幻想です。自己完結的で、他人の入り込む余地は一切ない。生み出した本人が分かっていればいいもの。一方で、『物語』は、本質的に他者を必要とします。読まれる人がいなかったら『物語』にはなり得ない。語る人が分かっているだけではなく、そのイメージが共有されうるもの。これは開いていて、言葉を解くことができるなら誰でもその領域にアクセスできる。嘘が嘘のままで終わる『妄想』と違って、『物語』は生身の現実の地平に繋がっている。

『閉じた』まま、『開いて』いる小説って僕には二つくらいの小説のタイトルしか浮かびません。サリンジャーの『ライ麦畑』とドストエフスキーの『地下室の手記』。どちらも憧れのタイトルです。

僕の小説の致命的な欠陥はおそらく他者に開かれていないところにあると思っています。それは書き手である僕自身の生き方にも関わっていることではないだろうかと。

小手先のテクニックや文章の技巧云々以前の問題で、僕は誰かにものを語りたいと思っているのだろうか。もし語るとしたら――誰に? 何を? どんな風に? なぜ?

誰かに何かを語りたいという欲望を満たすためだけに、小説の形式を使ったとしたら、僕はそうするべきではなかっただろうと思います。最初から与えられた口で、話すべきだったと思う。

でも、そうして誰かに語ることが不可能なことのように思えたから、僕は文字を頼って、小説を利用しました。話に耳を傾けてくれる存在も、信頼して語ることのできる他者も、掴むことのできる手もなかったから、そのとき誰もそばにはいなかったから、僕は代わりに目の前に転がっていた安っぽいボールペンの芯を掴んだ。そのまま口にするにはためらわれることがあったから、僕はそれをいつか物語にしようと企てた。もうとうに作者の死んでしまった外国の小説の中に他者の声を見つけようとした。文庫本の文字を追って、限りなく遠いところに行きたかった。自分の見えている世界と縁が切れるところまで。

未来に向かって書くというより、僕には過去に向かって書いている気がしました。書けば書くほど、昔に向かっていった。

はじめて大学ノートに小説を書いたとき、僕はただ自分のためだけに物語を書きました。救いらしいものは何一つなく、目の前にはただ壁と呻き声とだけがありました。ほんとにそんなところを見たことがあるのかと軽くあしらわれ、絶望、という言葉を使うと鼻で笑われました。でも、たぶんそういうものは見えない壁一枚を隔てたすぐ側にあって、案外、街中でふらりとすれ違ったひとりの人の中に、いくらでも埋まっているものなんだと思います。誰の目にも留まらず、すっと足音もなく消えていく人の中に、ほんとうの声が隠れている気がします。僕はその声をつかまえてみたかった。それを言葉にして、文字にして、形あるものとして、爪痕みたいに残しておきたかった。だから書く理由はまだ残っているし、生きる理由も残っている。

何でこんな話をしたくなったのか僕には分かりません。ただ蝉の声が聞こえていたから、としか答えられない。

今年も夏が来ましたね。

kazuma

2020/08/05 23:10