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一馬日報(手記) 文芸活動記録

一馬の手記 2021.5.17

日常の記録。今後もこの形式で呟いていこうと思うので、どうぞよろしく。

終わらない思索と試作の旅に出よう。

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自分の頭で考える、ということを、したい。

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ショーペンハウアーの『読書について』を、大学生のとき以来に再読している。まだ冒頭だが、読書に関して、いままでやってきたことを片っ端から粉砕するような内容が書かれてあるので、かなりノックダウンされている。清々しいほどに。僕は真逆のことをやってきた。二十歳の頃の僕はいったい何を読んだ、というのだろう。ただ文字の上をさらっていっただけじゃないか。読書をはじめる前に読書する本。それも順序としてはかなり早い段階で目を通しておいた方が良かった類いの。

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『多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗する羽目になる』

『読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ』

『少なくとも読書のために現実世界から目をそらすことがあってはならない。読書よりもずっと頻繁に、現実世界では、自分の頭で考えるきっかけが生まれ、そうした気分になれるからである』

『これに対して博覧強記の愛書家は、なにもかも二番煎じで、使い古された概念、古物商で買い集めたがらくたにすぎず、複製品をまた複製したかのように、どんよりと色あせている。型通りの陳腐な言い回しや、はやりの流行語からなる彼の文体は、他国の硬貨ばかり流通している小国を思わせる。すなわち自分の力ではなにも造り出せないのだ。』

<ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳 光文社文庫版>

これが僕のやってきたことへの批判でなくて、何だろう。僕は現実世界から目を逸らすために小説を書きはじめたし、目の前の景色を放り出してずっと印字された10ポイント足らずの活字の流れを追っていただけだ。日常の細々としたことを別にすれば、僕がやろうとしてきたことは、自分の頭で考えることとは真逆のことだ。

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現実から逃れるために書かれた言葉はおそらく誰の心にも響かないだろう。

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昨日はサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』のバナナフィッシュを読み直していた。いま書いている短編第三作の参考にしようと思っていて。短編の一作目はカポーティの『ミリアム』からアイデアを膨らませ、二作目は『ティファニーで朝食を』からホリー・ゴライトリーをモデルに、作中のある人物に当て書きをした。三作目はサリンジャーの『バナナフィッシュ』から僕が受け取ったものを使って何かを作れないかと。すべてやっていることはモノマネのようなものかもしれない。でも僕は一度、いままでに影響を受けた作品を一通り一巡しながらものを書くことを身に付けたいのだ。

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リアルの友人とこっそりもの書き会をやっている。第三作目の冒頭に作ったものを読んでもらった。冒頭は二つ作った。今回は三人称で書くと決めているので、最初に一人称で書いたものをベースに、もう一度三人称に書き直したものを見比べて指摘を貰った。僕はほぼ八年間、誰のアドバイスも受け入れずに一人称ばかり書いていた。そういうことはもうやめようと思った。僕には思いつきの一筆書きだけで作品が出来上がるような才能など微塵もないことを受け入れようと思った。だからもう一度、短編から取り組み直している。友人は、確かに一人称の方が意識の流れに淀みがなくて、読者が入り込みやすいように書けてはいるが、三人称の方をきちんと書けるようになってから、もう一度一人称に帰ってきたら、と助言をくれた。慣れない三人称の方で試作した文章は、僕の癖で視点の入り混じりがあったので、文章に違和感がなくなるまで、上から一文節ごとに潰していって、問題のある箇所、少なくとも視点の入り混じりで作品の減点とならないよう、根気よく修正に付き合ってもらった。

僕みたいなとんでもない書き方をするもの書きに付き合ってくれた、理解のある友人に出会えたことに心から感謝している。

僕は得難い友人を得たのだと思う。八年も後になって。

遠回りはしたが、間違いではなかった。句読点と改行とアスタリスクの先にも続きはあるのだ。

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中村文則さんの新刊『カード師』が気になっている。毎日新聞の夕刊欄に新刊のお知らせと簡易インタビューが掲載されていた。noteでも感想文の募集をやっているようなので、間に合えば投稿してみたい。

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職場の人に休みの日に丸善に行かないかとお誘いがあった。『カード師』も気になっているタイミングだったし、読書漫画の『バーナード嬢曰く。』の5巻を手に入れたかったので、寄れたらいいなと思う。

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友人は本を読めなくなった時期があって、そのときにも梶井基次郎の『檸檬』だけは読めたというので、今度買ってきてやろうと思う。ちなみに読前の印象で「『檸檬』って、丸善を爆破する話だろ」と言うと、友人はくすりと笑ってくれた。

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街中を歩いていると妙に落ち着かなくて、電車の中に乗っているときもなるべくひとの顔を見ないように本の中に目を落としている。やっぱり僕はまともな人間にはなれないようだ。

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新しいスニーカーを買った次の日はいつも雨だ。人生で一度も外れたことがないジンクス。職場でその話をしたら僕は雨男だということになってしまった。

今日はこれで。そろそろ創作に戻ります。

またね。

kazuma

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『妄想』と『物語』ることの狭間で。

二十三時の作業机。

こんばんは、kazumaです。身の回りのごたごたがようやく落ち着いてきたので、夏のお便りを書きます。近況ですが、諸般の事情でアパートから去りました。またもう一度出直すことになりそうです。小説の執筆は何とか続けていました。十月の群像に出すつもりです。小説の完成が、今年の夏の宿題になりました。

この三ヶ月間、かなり目まぐるしい変化が内面で起こっているのを感じていました。といっても傍目に見て何かが劇的に変わったという訳ではないのですが。メランコリックなところは本当に相変わらずです。しばしばベルトの輪っかを結んで梁に引っかけたくもなりました。いつも通りの夏でした。公園通りを歩けば、蝉の声が聞こえます。昔は何気なく聞いていたその鳴き声が、いまでは妙に響いて聞こえます。まるで目の前に映るすべての景色をかき消して、忘れ去らせてくれるみたいに。

引っ越しの荷物が届いた部屋を整理していると、昔に書いた小説を見つけました。大したものではありません。昔、文学学校に半年だけ在籍していたときに書いた習作のようなものです。クラスの担当者が丁寧に赤線を引いて、添削が書き込んでありました。

初めての授業で、僕は一夜漬けで書いた適当な短編を持って行くと、これはいいと言ってくれるひとが何人かありました。三ヶ月後に、当時悩みながら作った課題の提出作品を持って行くと、その場にいた十人中十人が、訳が分からない、何が言いたいのか分からない、あなたの文章には中身がない、と言いました。飛び入りでクラスに参加していた十代くらいの少女が、ほとんど怒ったような剣幕で、あなたはどういうつもりで小説を書いているんですか、と言いました。実際にはもっとひどい言葉でした。僕は大して意味のない返答をしました。添削には、文章にひとりよがりな部分がある、と書かれていました。他の些末な修正部分は笑い飛ばすことができても、そこだけは妙に冗談では済まされない何かがありました。僕の書いた小説には、致命的な欠陥があるようでした。

あるひとは、これでは小説でも物語でも何でもなく、ただのお話に過ぎないと言いました。言われたときは受け入れ難かったですが、それが事実でした。そう言って貰ったことに感謝しています。僕ははじめてペンを握ったときから八年経っても、まともな小説ひとつこさえたことのないもの書きでした。どこにでも、いくらでも転がっている作家志望のなれの果てでした。

ここでピリオドでも、カンマでも、読点でも、句読点でも、閉じ括弧でも、了でも、何でも打ってしまえば楽になれたんでしょうが、どうにもノートの頁を繰る癖と、Enterキーを押下する癖は直りそうもない僕は、かなり底意地が悪いので、万年筆のペン先とキーボードの上でひとり悪あがきを続けています。

他の人にはまるで繋がっていないようにみえる言葉の鎖も、僕の目にはちゃんと繋がっているようにみえていました。ただそれが、自分の目にはそうみえるというだけではなくて、誰かにもきちんとそうみえるように書かなくてはならなかった。

『妄想』と『物語』の違いって何だろうと思います。

両方とも現実にはないものです。でも、性質はまるで違います。『妄想』の中に、他者は本質的に存在しません。それは閉じていて、個人にとって都合のいいように歪められた幻想です。自己完結的で、他人の入り込む余地は一切ない。生み出した本人が分かっていればいいもの。一方で、『物語』は、本質的に他者を必要とします。読まれる人がいなかったら『物語』にはなり得ない。語る人が分かっているだけではなく、そのイメージが共有されうるもの。これは開いていて、言葉を解くことができるなら誰でもその領域にアクセスできる。嘘が嘘のままで終わる『妄想』と違って、『物語』は生身の現実の地平に繋がっている。

『閉じた』まま、『開いて』いる小説って僕には二つくらいの小説のタイトルしか浮かびません。サリンジャーの『ライ麦畑』とドストエフスキーの『地下室の手記』。どちらも憧れのタイトルです。

僕の小説の致命的な欠陥はおそらく他者に開かれていないところにあると思っています。それは書き手である僕自身の生き方にも関わっていることではないだろうかと。

小手先のテクニックや文章の技巧云々以前の問題で、僕は誰かにものを語りたいと思っているのだろうか。もし語るとしたら――誰に? 何を? どんな風に? なぜ?

誰かに何かを語りたいという欲望を満たすためだけに、小説の形式を使ったとしたら、僕はそうするべきではなかっただろうと思います。最初から与えられた口で、話すべきだったと思う。

でも、そうして誰かに語ることが不可能なことのように思えたから、僕は文字を頼って、小説を利用しました。話に耳を傾けてくれる存在も、信頼して語ることのできる他者も、掴むことのできる手もなかったから、そのとき誰もそばにはいなかったから、僕は代わりに目の前に転がっていた安っぽいボールペンの芯を掴んだ。そのまま口にするにはためらわれることがあったから、僕はそれをいつか物語にしようと企てた。もうとうに作者の死んでしまった外国の小説の中に他者の声を見つけようとした。文庫本の文字を追って、限りなく遠いところに行きたかった。自分の見えている世界と縁が切れるところまで。

未来に向かって書くというより、僕には過去に向かって書いている気がしました。書けば書くほど、昔に向かっていった。

はじめて大学ノートに小説を書いたとき、僕はただ自分のためだけに物語を書きました。救いらしいものは何一つなく、目の前にはただ壁と呻き声とだけがありました。ほんとにそんなところを見たことがあるのかと軽くあしらわれ、絶望、という言葉を使うと鼻で笑われました。でも、たぶんそういうものは見えない壁一枚を隔てたすぐ側にあって、案外、街中でふらりとすれ違ったひとりの人の中に、いくらでも埋まっているものなんだと思います。誰の目にも留まらず、すっと足音もなく消えていく人の中に、ほんとうの声が隠れている気がします。僕はその声をつかまえてみたかった。それを言葉にして、文字にして、形あるものとして、爪痕みたいに残しておきたかった。だから書く理由はまだ残っているし、生きる理由も残っている。

何でこんな話をしたくなったのか僕には分かりません。ただ蝉の声が聞こえていたから、としか答えられない。

今年も夏が来ましたね。

kazuma

2020/08/05 23:10