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一馬日報(手記) 文芸活動記録

『表現の方途』

 こんばんは、kazumaです。最近はちょっと創作について思いあぐねているところがあるので、その辺のことを記しておく。

 以前、書き終えた短編、『ハイライトと十字架』は作者としてはわりとよく書けた方だと思っているが、感想をいただくとやっぱりどこか粗が目立つようで、いくつか指摘をもらった。時々それについて考えている。だいたい読者に実際に届くのは、作者の思っているよりも、二、三割ほどさっ引いた感じで伝わると以前ひとに教えてもらったことがある。なるべく百パーセントに近づけたいと思っているが、使用している手段は言語なので、当然百パーセントにはぜったいにならないし、書き手側に手落ちがあれば、誤解を生んだりもする。しかし文字として表現されないことには、作者の思いやイメージが伝わることはない。僕はまずここから微妙な思い違いをやっていたようである。

 つまり、言葉によって表現される前から心象があって、それはとくに他者に伝えなくとも最初から存在していると見なしていた。結論から述べることになるけれど、そういう心象が最初から存在しているように見えるのは、今読んでいる本の言葉を借りれば、ヤマカッコ付きの<僕>=作者のなかにのみであって、それを第三者から見た時にそれが存在しているかどうかを知るためには、なんらかの表現手段のちからを借りなければなにも分からない、ということだ。

 場合によっては、それが確かにそのひとの中に根付いた、どんなに素晴らしいものが自分の内側に眠っていたとしても、それが表現されないことには、「他者にとっては」存在しないことと同じになってしまうのだ、という点について僕はたぶん思い違いをしているらしい。

 指摘された内容のひとつに、作者(の心情)が誰か(読者)に向けてわかってほしいと思って書かれたもののように見える、というものがあった。

 これは作品とかだけではなく、Twitterなどの普段の発言でもどうもそう見えるらしい。だとすると僕は、Twitterで呟くのと同じ感じを、小説でも与えてしまっていることになる。

 実はこの指摘は、三年前に別のひとからも感想として受け取っていた。そのひとは小説についての感想だったけれど、たぶんその当時のネット上の言動もだいたいそんな風に見えていたんじゃないかなと思う。その辺りのことで、多分僕は小説の書き方に関して、何か決定的な思い違いをしているんじゃないかという妙な確信があった。

 三年前の、そのひとの意見によれば、僕はそもそも根底から作品を作り直さなくてはならないのだと言われていた。僕が思い違いをしているということは作者自身である僕にもなんとなくわかるのだが、それがほんとうはどんな性質のものなのか、それがはっきりとは分からずにいた。いまもそこを思いあぐねている。

 ここで一旦、昔話になるが、僕がそもそも小説を書き始めたのは、ただ自分のためにだけだった。その頃、僕は碌でもない感じで病棟に入っていて、周りには知っている人ひとりおらず、わりと社会から隔絶された暮らしをしていた。

 その辺の細かい事情はどうでもいいので省くが、その頃から僕は他人に対して心を閉ざしていたので、事務的な内容以外はとくにひとと喋ることもなかった。こころを開くということ、それを表すことは、僕にとっては一番の難題だった。

 部活動をやっていた頃、『お前は何考えてるのかぜんぜんわからん、ちゃんと口に出して言えや』と同級生になじられたことがある。その時、確かに僕の中には心象として表したい気持ち=怒りのようなものが確かに先にあるのだが、いかんせん、とっさにはそんな言葉が見つからないので、歯痒い思いをしたことがある。僕はある意味では一番苦手な表現分野を選んでしまったのかもしれない。
 言葉にする、口にするということは、幼い頃の僕にとっても一番苦手な行為だったのだ。何かを口にするくらいなら、さっさと回れ右をして、話すことなんて何にもないんだというように、そっぽを向いて明後日の方角へ歩き出す。そういう感じの子どもだった。

 でも僕はやっぱりちゃんと口にしなくてはならなかったのだ、言葉にしなくてはならなかったのだ。同級生はかなり気に食わないやつだったのだが、それでも何について怒っているかを言わなければ、相手に対してフェアであるとは言えない。僕はこういうことを実は小説のなかでも無意識にやってしまっているのではないかという気がする。
 つまり、作者が作者の中だけで分かっていることを省略して書くことで、読者に対してその目の前で回れ右をしている。事情について言及されることはない。それが意図して選択した表現=敢えて表現しないことを選んだ表現、であるならまだしも、僕がやっているのはどこからどう見てもそうではない。何について登場人物が哀しんでいるのかを、理由も明かされないままに、少なくとも読者の側から汲み取れるようなものになっていない限り、僕の表現は僕の中においてしか通用しないものになってしまう。読者がそれを読んで怒るのも当然だ。単なる作者のひとりごとや愚痴を聞かされるのは現実だけでもまっぴらごめんだから。

 僕が三人称視点の物語がうまく書けないことの理由も何かそこに問題の根がある気がする。技術的な問題なら、その都度、対処していけば、いくらでも潰すことができる。ただ創作のスタンスがはなから違っていたら、それは決定的な読者との裂け目になるのだということを僕は八年経っても何もわかっていなかった。

 三年前の指摘を、別の人から指摘される、しかもどちらも小説については相当詳しい人物にそう言われるのだから、僕の小説の書き方には欠陥があると言わざるをえない。他の技術的な面で多少の成長があったとしても、それは小説の本質とはまったく関係がない。技術が本質を覆うことはあり得ない。僕の小説は三年前から、その根本的なところで変化が起きていない。もっと厳しく言えば、何も成長していないことと同じだ。

 では、僕の一人称小説、あるいは視点人物における「僕、わたし」と一般的な文芸において使われている「僕、わたし」とはいったい何が違うのか。どうして同じ言葉を使用しているのにもかかわらず、一方ではただのひとりごと、単なるモノローグ、あるいはそれにすら及ばない自分語りであるのに対し、他方の一般文芸で使われている「ひとりごと」あるいは「モノローグ」が単なるひとりごとではなく、モノローグという体裁を取っていても読者の胸を打つことができるのはなぜなのか。
 そういうことを考えた時、僕の小説で使われている「僕」は作者の中でしか通用しない完全に閉じた、作者のなかにしか見えない「僕」であって、他方の「僕」は、おそらくその物語を読んだ人間にとっても「ぼく、わたし」となりうるような開かれた「僕」なのではないか。だから体裁がどんなに拒絶しているものに見えようとも、他者によって置き換えて読むことのできる度量のある「僕」になっていればそれは小説としてありなのだ。単なる作者一個人の範疇を越えて、より広い範囲をカバーしている、そして他者がその「僕」の範囲内の中に常に含まれてしまうような「僕」。それが書けた時に、僕はほんとうの意味でただのお話ではなく、誰かにとっての物語でもある「小説」を書けたことになるのではないかと思う。 

 その表現方法を学ぶのがものかきにとっては必要であって、僕はその勉強をきちんとしてきたか? と問われれば、やっぱりまだそうではないと答えるしかない。
 ある意味で、そういう自分なりの表現方法を模索するところに辿り着くことが唯一のスタート地点で、そこに到達するまでに何年掛かろうと、問題にはならず、むしろここからがはじめて創作に取り掛かると言っていいところなのかもしれない。
 僕はずっと八年間、我流だけでやってきたが、我流だけで最後まで押し切ってどこかに到達できるのは、ほんとうに一部の天才だけであって、凡才である僕はどんなに惨めであっても、ここに来るまでにどれだけの年月を掛けていたとしても、先人の作品から表現の技術を学ぶところからはじめなくてはならないと思う。その上でオリジナルな、自分の表現したいものに合った表現の方法を見つけなくては創作にならない。

 僕に指摘をしてくれたひとたちは、みな独自の小説論、独自の小説に対する美学と哲学を持ち合わせていた。僕はまだそういうものを持っていない。そういう眼で、もの書きの、表現する側の眼で物語を読めていなかったからだ。そろそろ鑑賞者としての視点は捨てて、作家の側の視点、ものをつくっていく側の視点を持たねばならないよ、と僕は以前にはっきりひとに教えられていた。ほんとうは教えられて気づくのではなく、自分で気がつくぐらいでないといけなかったにもかかわらず。

 作家がなぜこういう表現を選んでいるのか、どうしてこの構造を使用しているのか、何のためにこの位置にこの文章が置かれているのか。もちろん素直な読者として読んで、作者としての何かしらのメッセージを受け取るということをおろそかにすることはないと思うけれど、そのメッセージを伝えるためにどんな手段が小説内で取られているのか、そこのところを研究することが、少なくとももの書きであろうとするのなら、必要になってくる視点じゃなかろうかと思う。

 僕はそのメッセージの方はちゃんと受け取ろうとしてきたと自負しているけれど、それがどんな伝え方によって伝わっているのかを一度も考えられてはいなかったと思う。だから小説をその視点で研究する必要がある。僕はいち読者としては物語は読めても、創作者としてはまだ一度も読めてはいなかったのだ。

 僕が書いたものがもし、作者にとってのみ通用するものではなく、誰かにとっても置き換え可能なものが書けた時、僕の苦しみが、登場人物のかなしみが、そのまま誰かにとっての苦しみであり、かなしみであるような物語が書けたとき、僕はその時にはじめて小説が書けたと胸を張って言っていいのだと思う。そしてそれを表すために先人たちの物語の作り方から学ぶ必要があるのだと思う。

 細かい技術の習得なんてある意味どうでもよいことなのだ、僕はそれよりも誰かの苦しみやかなしみを描けるようになりたい。それ以外に僕が書いてきた理由なんてないから。

 正解かどうかは知らない。でも僕はまだスタート地点に立とうとしているだけの見習いもの書きだった。

 これからは、小説の研究をしながら、短編の習作づくりに励みつづけると思う。群像の方は落選だった。当然だけど、僕はまだ小説が書けていないから。どうせ学ぶなら僕は一番好きな作家たちから学びたい。サリンジャー、カポーティといった作家の作品から。以前、ティファニーで朝食をの解題をnoteに上げようとしていたが、中断していたので、もう一度やってみようと思う。 

 今度は内容についての言及ではなくて、この物語がどのように語られているのかという意味でのものかきの研究。ノートを一冊作ってもいいかもしれない。長編は書き上げてkindleの電子出版をするつもりだったけど、そっちはまだいまのところはお蔵入りになりそうだ。いまは短編から作り直したい。何回も何回も、納得がいくまで。新作短編は三人称に挑戦してみるつもりだ。未公開短編の第三作になると思う。

やるならこのあたりで。小説の研究。あるいは解体。バラし。分解。

 近況だけどTwitterからは離れた。僕みたいなタイプはそもそもSNSに向いていなかったのだと思っている。無意識に発した言葉で、たぶん気がつかないところで他人を抉ることもあるし、僕自身抉られてもいた。もうそういうのはこりごりなんだ。しばらくはひとりでブログで喋っていようと思う。元々、僕はブログ畑の人間なので。その方が性に合っているみたいだ。あと、この独自ブログを読みやすいようにメニュータブを付けてみた。ちょこちょこ変わっていたりするのでチェックしてみてほしい。

kazuma