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一馬日報(手記) 文芸活動記録 書評・ブックレビュー

「ライ麦畑は何処にある?」

こんばんは、kazumaです。最近、また姿をくらましていた。インターネットから離れているとラクになることがある。Twitterから少し距離を置いたのは正解だったのかもしれない。他にも人間関係をリセットすることがあった。祖母が亡くなって、友達もなくした。いまの職場も退職することが決まり、秋には僕はいなくなる。

かなしくないといえば嘘になるが、それでもどこかやっと繋がれていた首輪が取れたように、清々した気分でもある。僕は改めてひとと一緒にやっていくことが難しい種類の人間であることを、目の前の誰かから突きつけられる度に理解する。もうずっと前にわかっていたことだったかもしれない。いまも迷いの中にいる。モラトリアムは終わらないまま、僕は生きていくんじゃなかろうか。

世の人にほとんど知られることもなく、ひっそりと創作を続けること。ほとんどヘンリー・ダーガー的な生き方に近いやり口で、僕は生きている。ひとが望んだような道を選んで生きるのだとしたら、僕はほんとうはそういう生き方を望んでいたのかもしれない。

僕がいまやりたいことといったら、書房の活動とネットのライターとしてのライティング、小説をポメラでパチパチ叩きながら作り続けること、それぐらいしか残っていない。あとはみな、人生に付随したおまけ程度のことに思える。

「サリンジャー戦記」という村上春樹と柴田元幸の翻訳ペアが書いた本をちょこちょこ読んでいるのだけれど、その中で「ライ麦」のホールデンについて語っているところがあって、興味深く読んでいる。

あの物語に即物的な救いみたいなものを求めると間違った方向へ行きやすい、というようなことが書かれてあった。ホールデンの兄、DBはJD(サリンジャー)の言い換えで、あれが一種の自己治癒のために書かれたものであるならば、ホールデンもまた作者の分身であり、自分がもうひとりの自分に向かって会いに行こうとしていることになり、その辺のことをホールデンがちゃらちゃらとこともなげに語ってしまっているところが怖いと村上さんは述べていた。

ひとりでは支えきれない悩みやバックグラウンドに押し潰されそうな人間が、それを一挙に解決してしまうように見える短絡的な回答に飛びつくと、ジョン・レノンを殺したマーク・チャップマンと同じ道を辿ってしまう。phony=インチキ、偽善なるものはすべて排除しなくてはならない、そうでなくてはinnocent=純潔、純真なるものを守れなくなるから、とそういう風にこの物語を読み取ってしまったとしたら、そうなるだろう。

でも、この物語はひとりの少年がこの世に身の置き所を探し続けた葛藤と探求の物語であって、ホールデンは外側から見れば確かに社会に反抗している捻くれ者の少年に見えるのかもしれないが、その外側に現れる行動だけを見て、それをホールデンだというのなら、ホールデンを殺しているのはむしろその読者だというべきだ。

ホールデンは単に自己を、あるいは誰かに触れられればすぐに壊れてしまうものを、外界から守るためにわざと大人たちに反発、脊髄反射ともいえる抵抗をしているのであって、わざわざ自分からphonyなる人物のテリトリーに入っていって殴りに行くようなことはしていない。サリンジャーだってそんな話はひとことだってしたくなかっただろうし、実際に彼は一切そんな話はしていないのだ。自身が精神的な病(PTSD)を抱え込んだ元になったと思われる戦争の時の話を一切していないことを考えれば、それだけで十分な説明になるだろう。

ただ一方で現実のサリンジャーはその後、隠遁生活を送るようになる。物語の終盤に差し掛かる頃に、ホールデンはどこか遠いところへ行こうと思いつく。縁石から通りに歩いて行こうとするとき、その向こう側までたどり着けないんじゃないかと考えるシーンのあとで。もう二度と実家にも戻らず、学校へも行かない。西部に向かってヒッチハイクで行って、近くに森のあるガソリンスタンドで働くとホールデンは言う。

でも、仕事の種類なんか、なんでもよかったんだ。誰も僕を知らず、僕のほうでも誰をも知らない所でありさえしたら。そこへ行ってどうするかというと、僕は啞でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。誰かが何かを僕に知らせたいと思えば、それを紙に書いて僕のほうへおしてよこさなきゃなんない。そのうちには、そんなことをするのがめんどくさくなるだろうから、そうなれば僕は、もう死ぬまで誰とも話をしなくてすむだろう。みんなは僕をかわいそうな唖でつんぼの男と思って、ほうっておいてくれるんじゃないか。

「ライ麦畑でつかまえて」J・D・サリンジャー 野崎孝訳 白水社 308、309頁

ここには現実のサリンジャーのphonyなるもの=俗世から身を守るための術、あるいは回答めいたものが書かれてある。この一連の件は逃避的であるにもかかわらず、妙にひとを惹きつけるような美しさを備えた妄想のように僕には思われる。向かいの通りまでもう歩くことができないという感覚を知っている人間にとっては、あまりにも蠱惑的に映るホールデンの夢想なのだ。そしてサリンジャーはニューハンプシャーのコーニッシュに自宅を建て、そこに壁を張り巡らせて暮らすことになる。

生きれば生きるほど、僕はひととはやっていけないなと思うようになった。ホールデンが望んでいるものは、僕が望んでいるものにかなり近いのだ。サリンジャーが壁の中で暮らしたくなるような気持ちは、僕にも分からないでもないのだ。半分、僕はもうそっち側に足を踏み入れているのだと思う。誰も僕のことを知らない街で、僕も誰のことも知らない街で暮らす。アントリーニ先生の言っていた堕落についての言葉が思い起こされる。その堕落には底というものがない。

世の中には人生のある時期に、自分が置かれている環境がとうてい与えることのできないものを捜し求めようとした人々がいるが、今の君もそれなんだな。いやむしろ、自分の置かれている環境では、探しているものはとうてい手に入らないと思った人々というべきかもしれない。そこで彼らは捜し求めることをあきらめちゃった。実際に捜しにかかりもしないであきらめちゃったんだ。わかるかい、僕の言うこと?

同上 292頁

村上さんは「ライ麦」のいちばん良い読者は、そこに意味や回答なんかを求めたりしない読者だと言った。僕だってそう思う、サリンジャーが物語の中で見出した意味や回答や、救いといったものは、サリンジャー自身の人生で見出した回答であって、それが僕自身の回答とイコールで結べるものではない。

ホールデンのその身の置き所を探し続ける過程を見るべきであって、それをすっ飛ばして辿り着いたところを見るのではいけない。僕は僕で、ひととはやっていけないなりに、やっていく道筋を探さなくてはならない。僕にとってのphonyなるものを否定し続けることによって、それを乗り越えることはできない。ホールデンはあくびをして聞いていたみたいだけど、アントリーニ先生の言葉は簡単に無視できるものではない。

「『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』」

同上 293頁

この言葉の意味は、二十代のはじめに読んだ頃には分からなかった。でも終わりが近づくにつれて、何となく、その意味が取れるようになった。そんな大人の論理が馬鹿げていると一蹴するホールデンの格好のよさというのもわかる。でも理想が叶わないからといって、そうやって生きていくのが恥だからといって、僕は僕を投げ捨てることはできなかった。それをやろうとして僕は失敗した。だからホールデンと同じ道を辿って、病棟の中に入った。そこで見た景色のことを、僕は何といってよいかまだ分からないでいる。そういう誰にもいえないかなしみがあったから、僕はそれをことばにして誰かに伝えたかった。そのためになら、どんなに恥をかいても、惨めな一生を過ごしても、誰からも顧みられなくても、ひとから後ろ指を差され笑われても、生きていなくてはならないのだと思った。「ライ麦」は僕に生きることを教えてくれたただひとつの本だ。

いまはずっとひとりで書いている。未発表原稿の短編第三作をつくっているところだ。もう少し、僕が信じているものについての話をできたらいいなと思う。物語の中でならまだほんとうの声が出せる気がするから。

kazuma

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