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記念行事

同じ道を歩けない僕らは。

どうも、kazumaです。今日はちょっとした昔話をしにきています。まずは近況から。

この二週間というもの、ほとんど社会から隔絶された暮らしをしています。何時に起きるのも自由だし、何時に眠るのも自由。朝と晩に原稿をやって、書房に一冊本をアップするほかは、とくに決まり事はありません。ルーティンを立てて、一週間ほどやってみたのですが、原稿と書房、ライティングのほかは残さなくても結局生活は回るのだということに気が付きました。ルーティンで増えたのは三食自前でつくるということくらいです(今週はサンドイッチをたくさんつくりました)。そのほかのことは元々、意識せずともやっていたことだったので、明文化することで再確認するのに役立ちました。

二回目のワクチン接種が終わった段階で次の仕事を探そうと思います。来月にはまた非正規の労働をどこかでやっている気がします。働いていたときは、ものすごく嫌な思いをしながら、毎日しぶしぶ行っていて、いまみたいに一ヶ月ほどの休暇が取れたら、それはまるで天国のようだなと考えるものですが、実際に蓋を開けてみると、それはそれでまた生ぬるい泥の中へと浸かっていくような地獄でした。

とはいえ、日常の通勤やら会社での人間関係やらを一時的に無効にして逃げ込めたことは、悪くありませんでした。症状はずっと十年前からあるのですが、辞めたあとは症状があってもあまり気にならない時間があるというか。単にひとと会う場面がほとんどないので、そういう症状が目立たないだけかもしれません。

今日は十月十日です。僕は毎年この日になると、感傷的になります。感傷的なのはいつものことですが、それよりももっと違った意味で。ハレの日の感傷とケの日の感傷とでもいえばいいでしょうか。

僕の暦は、十年前の十月十日から始まっています。正確に言えば、2011年10月10日の午後です。それ以前では僕ではなかったし、それ以降では遅すぎるのです。人間が生まれる日が定まっているように、人生において分岐となる日が誰しもあると僕は考えています。それはその瞬間にいるときに気づくことはマレです。大抵は振り返ったときにあの日、あのとき、あの場所がレールの切り替わった地点だったのだとわかります。ひどいときには現在になってもどこでレールのポイントが切りかわったのか、わからないこともあります。

ある不幸なできごとがあって、その根源を辿ろうとしたことがあります。出来事Aが起こるためには過去の出来事Bが起こっていなければならず、その出来事Bはさらに過去の出来事Cがなければならない。卑近なたとえばですけど、僕がこの時間にこの文章を打っているためには、夜にまとまった時間がなければなりません。また記事をアップするためにはPCが必要ですが、今使っているMacをどこかの過去の地点で手に入れていなければこのタイピングしている文章も存在しません。今日のこの日に時間をつくるためには、僕は一旦会社を辞めていなければならず、Windowsではなく、Macを選ぶことをしていなければ、多分変換の具合で微妙に異なる文章が生成されていたことでしょう。

この例ではあまりにも身近ですが、これを実際の自分の人生で、もっと大きい規模のスパンでやるんです。僕は自分がなぜ病に罹ったのか、どうしてこういうことが起きて、病ではない未来がなかったのか、必死にその理由を探しました。僕の病は精神医学の領域で、現代でもまだはっきりとした説明はついていません。治療法は薬物治療が一般的ですが、確実に寛解に至ることができるわけでもありません。ナマな話をしてしまえば、おそらく現代の最先端の医師でも学者でも、その根本のところはおそらくわかっていないのです。僕はそういう病に十代の終わりに罹りました。二十歳の誕生日を病院で迎えたことはありますか? ひとりの友もなく、東京から夢破れて、出て行った時に使っていたトランクトローリーをがらがらと引きながら、真夜中の見知らぬ街を歩いていたことを、僕はいまだに思い出すんです。そのとき、世の中はちょうどクリスマスが終わった頃で、街のイルミネーションの残火がちかちかと点灯していました。

一年前にKというひとについての話をしました。リンクは張らないので、知りたい人は各自で辿ってください。すぐに見つかると思います。

Kは僕にこの世界の文法を教えてくれたひとです。本人はまったくそう思ってはいないだろうし、僕のことはもう記憶にないでしょう。その方がいいのです。僕にとって彼女はひとりしかいなくても、彼女にとって僕はいくらでもいる友人のひとりでしかなかったから。

僕が人生でいちばん幸せだった瞬間を挙げろと言われれば、いまでもこの十年前の十月十日の午後を思い出します。人生で手放しで喜べる瞬間など、ほとんどありません。でも、その日、そのとき、その場にいた僕は違ったんです。Kがテーブルの向こう側の、すぐ手の届く場所に座っていたから。そこから先は離れていく一方でした。Kは僕の人生に突然現れた彗星みたいなもので、僕の周回軌道では一生追いつけない位置にありました。

留学中のKにEメールを打ったことがあります。僕はちゃんと履修したかどうかも怪しい、たどたどしい英文を打って、文法的にはおそらくかなり問題がある、でも日本人にならわかるような表現で、彼女のアフリカでの生活がうまくいくことを願いました。数日後、メールが帰ってきて、彼女は自然な英語を使って、近況を簡単に話してくれました。帰国後に会えることを楽しみにしていると。結びにはwarm regardsと書かれていました。僕が馬鹿丁寧でビジネス用途の、親しい文面にはまったくそぐわない、sincerely yoursを使ったあとで。

彼女が教えてくれたのは、単なる英語の文法ではなく、この世界での生き方でした。もしいま話をしてこんなことを言ったら、たぶん「そんなもの、教えた覚えはないんだけど」と彼女は困った顔で言うかもしれません。分かりません。でも、ほんとうにそうだったのです。

僕はその日の午後を境に、斜面を転がるように下っていきました。ある意味ではまだはじまってもいない、社会人のスタート地点にも立てぬまま、底の方へと下っていったのです。ニーチェ的な意味では没落です。でもニーチェは確かに何かを掴んで没落したのに、僕はなにひとつ掴むことなく、突然、足元にできた裂け目のなかに落ちて、わけのわからない奈落へ進んでいきました。

大学の授業でのことを僕はいまでも覚えています。病に罹って、病院での入院(というよりも収容に近かった)生活を切り抜けて、やっとの思いで復学した僕は、大学には何とか通えるものの、ひととコミュニケーションが取れない廃人になりかかっていました。薬の副作用で呂律は回らず、病に罹る直前まで輪郭が見えていたものが見えなくなり、すべてが混沌とした、自分には手に届きそうにないものに見えました。僕はKに挨拶するだけでももう精一杯で、自分の番号の席に着いたときに、僕は彼女の人生からいなくならなければならないということを、はっきりと悟りました。僕はこれから関わることになるすべての人間を不幸にするかもしれない、なぜなら僕はどんな人間ともいつか関係を反故にせざるを得ないから。そういう風にものごとを見るように変わっていきました。背景には僕の家の因習も関わっていて、僕は今でもその網目から完全に脱け出ることができたとは言えません。思想的な意味でそういったすべてをはねのけることが、後天的に得た文学や哲学によってでできても、物理的な意味で自立できているわけではないからです。その網目から抜け出さないことには、僕はほんとうの意味では誰とも関わることはできません。いつか沈んでしてしまうことが分かっている船に乗っているようなものです。

僕はその学内にいた学生のうち、九割九分九厘が通ることのない道を歩きました。思想的な意味でも、実人生という意味でも。彼らには彼ら同士で同じ道を歩くことはできます。それは世間的に見ればかなり歪な道ではありますが、すくなくとも閉鎖的な特殊なコミュニティのなかで担保された人生です。友人は友人のままで、親は親のままで、教師は教師のままで、知人は知人のままで、恋人は恋人のままで。そんな風にいることが、閉じた輪の中で許されている人生です。ただ彼らの大半も僕と同じように特殊な環境で育ったために、それなりの代償を意識的にか無意識にか払わされています。Kも例外ではありません。僕は彼ら彼女らとは同じ道を歩けなかった、僕らが目指している方角はすべてが真逆で、互いが対立しあい、そこから逃れるために僕は数え切れないほどの嘘をつくことを余儀なくされました。歩いて行く方向が違うもの同士が同じ道を歩くことはできないのです。それが許されているのは、ほんのたったひととき、偶然にも交点が混じり合った瞬間だけだから。

いつの間にか日付を跨いでしまいました。僕が彼女の前から何にも言わないで姿を消すことを決めたのは、僕が病を持ち、家庭の因習からは逃れられず、決して同じ方角へ向かって歩くことのできないことを二十歳の僕が知っていたからです。誰とも一緒にはいられないことを知っていたからです。僕は十年かけて出会ったひとびととの縁を片っ端から削ぎ落とし、切り刻んで生きてきた人間です。その根っこの出来事Xにまでたどり着いたとき、この出来事の根は、実は僕が生まれる前の地点からはじまっていることに気がついてしまいました。その瞬間、僕は人間には決して超えることのできない壁があるのだということを、理屈抜きにわかったんです。それで僕はこの袋小路に入ってしまった人生をどうすればよいのか考えたとき、ひとりで小説を書いて生きていこうと決めたのでした。

生身の僕は誰とも共に歩めなくとも、言葉だけは歩んでくれるように。一緒に火のなかを歩んでくれるように。

To K

I’m still writng novel almost ten years. But I can’t go with you in same path.

Happy Birthday.

21.10.10

kazuma

「同じ道を歩けない僕らは。」への2件の返信

かずまさん、お久しぶりです。
かずまさんの文章、とても魅力的に熟成してきているように、ここ半年くらい、勝手ながら感じておりました。
かずまさんの文章を読んだ後、重みをもってぼくのうちに沈んでゆくものがあります。
自分自身に向けて誠実に書かれているように感じられることがその魅力かもしれません。
人に向けて、あるいは不誠実に書かれたものばかりに思いますから。

同じ時間を生き、文章を読ませて頂いていることに感謝です。

ばさばさ  拝

ばさばささんへの返信

ばさばささんへ

お久しぶりです、いつもコメントありがとうございます。
ここに書いてあることはとても個人的な文章で、僕にとっての大切な記憶の一部です。

そういうパーソナルな、本来であれば分かち合えないはずのものが、それを読んだ人に何か火種のようなものが残っていくのであれば、書いた当人としてはうれしい限りです。

僕が自分の過去について長々と書き連ねているのは、苦しんだ過去や記憶を忘れようとしているからかもしれません。書くこと以外に、それらを切り離す方法を知らないのです。

自分の人生に起こった善いことも悪いことも、僕はみんな書くことによって忘れたいのです。その両方を乗り越えたいのです。机の前に座ってものを書くとき、そうすることでしか、書くことはできないように感じるのです。僕が望むことは、まっさらな気持ちで鉛筆を削り、その芯の先から何も書かれていないノートの上で小説を書くことです。すべてを白紙にしてそこから書きはじめることです。

あれから原稿の方はどうでしょうか。また落ち着いた時にブログや原稿の文章を読みに伺いますね。

僕も十月末には何らかの形で作品が発表できればと思っています。

kazuma

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