書くこと

「短編小説と公募の話」

近況報告、作品の添削とアドバイスを貰うなど

久々にまとまった時間が取れたので、最近の近況報告をば。実はつい先日、短編小説を添削してもらう機会があった。そのついでに、web上で純文学系の小説を書くことについての相談もしてみた。相手は明かさないが、出版経験のある人物だった。僕は短編小説をweb上(主にnoteやKDP出版)などにアップしているのだけれど、なかなか作品を読んでもらえないのが悩みの種だった。相手からのアドバイスは、やはり公募に挑戦するのがよいのでは、ということだった。

Twitterを追ってくれていたひとにはわかると思うんだけど、純文学系のアマチュアの書き手が作品を発表できる場がない、という話を過去に一度した。プロからすれば、純文学は文芸誌などの誌面に掲載されたもの、すなわち、文学賞を受賞した上で純文学系の五大誌(新潮・群像・すばる・文學界・文藝)などに載った作品だけが「純文学」と呼ばれるに値する、というのが、どうやら文芸の世界では常識になっているらしい。

「純文学」というのはどうもジャンルを指す言葉ではないらしい?

僕はこれまで十年間にわたって、純文学はてっきりジャンルを指す言葉だと思っていたんだけど、どうやらそれは違うらしいことを知って愕然とした。何だってそんなしち面倒くさいことになっているか知らないが、自分の書いているものが何のジャンルか、という説明をいちいちするのも面倒になってきたので、ただの小説を書いています、ということにした。Twitterのプロフィールにもそう書いた。個人的に、どこで何を書いていたって小説は小説じゃねえか、と僕は思っている。もしジャンルのこと(「何を書いているんですか?」)を聞かれることがあったら、よくわからないものを書いています、と答えるようにしたい。

話は逸れたけれども、相談した相手もおそらく純文学(らしき)小説をweb上で公開したとしても、読まれにくいという事情は分かっていて、それも込みで公募を勧めているようだった。まず純文学というジャンルは読み手の母数がかなり少なく、ニッチなジャンルでwebとの相性は正直に言うと悪そうだ。僕がフォローしたり、ここのブログを読んでくれているひとはわりとコアな文学ファンが多く、何となく錯覚してしまいそうになるが、世間一般から見ればかなり稀有な人たちであると思う。

Web上にただの小説を投稿するということ

Web上を席巻しているのは、エンタメ系(大衆文学)やライト文芸など、サクッと読めて、誰にでもわかるような面白さを追求しているジャンルが多く、需要としてみればどう見てもそちらの方に分がある。僕が「よくわからない」ただの小説をWebにぽんっと放り投げてみたところで、わずかなひとたちを除いて、無名の書き手の作品に割ける時間はないのである。

なので、もしweb上で小説を読まれたいと考えるのであれば、何らかの公募に挑戦して、選考を通過したり、受賞したという実績を積んだ上で臨むのがよろしい、ということだった。いまのところはそれが王道だろうな、と僕も思う。賞という第三者からの客観的な評価やお墨付きがなければ、読み手からすれば手を出しにくいのだろう。かなしいかな、小説の世界でさえ「何を」言ったかというより、「誰が」言ったかが、最初に読まれる上で重要な要素になってしまっているようだ(あくまでも一般の読み手から見れば)。

無名の書き手、読まれない問題。読まれる戦略としての公募はアリか?

そうなると、仮にどんなにいい文章が書けたとしても、それが読まれるかどうかはまた別の話になってくる。僕としては、もしほんとうにいい文章を書いて、誰にでも読めるような形でweb上で公開していたとしたらば、いつかは誰かが見つけるだろうと、わりと楽観的に構えていた。僕のゴールは、どんな形であれ、死ぬまで小説を書き続けて、それがいつか誰かに読まれること、なので、商業作家になるかならないかは問題にならないと考えていた。

ただ作品を読まれる戦略として、公募を考えるのは手段としてアリだと思う。プロになれるかどうか、選考を通過するか否か、ということは一旦脇に置いて、書いた作品を読んでもらえる機会だと思って利用すればいいのかなと思う。

公募昔話。僕は短編小説の世界に飛び込むことにした。

僕も三年くらい前まで公募勢だった。ある時から応募するのを徐々に止めていった。七年間、プライベートな時間をほとんどなげうって作った作品は、すべて見向きもされなかった。今頃、僕の書いた原稿が編集部でゴミ箱に投げ棄てられ、焼却場で燃えてとっくに塵芥になっていることを考えると、悔しさ以外、何も湧いてこなかった。当時、尊敬していたある人に「こんなものは小説とは呼べない。ただのお話だ」と言われたとき、僕は本気で一度筆を折りそうになった。そのときからプロになるかならないかなんて、どうでもよくなった。僕はただ小説を書きたかった。

250枚の原稿を持っていくと、これは30枚で書ける、と返された。実際その通りだったし、指摘は何も間違っていなかった。僕はその30枚をきちんと書けるようになろう、と思った。いちから小説を作り直した。あれから僕は短編の作品しか作っていない。

サリンジャー、カポーティ、芥川。憧れた作家はみんな短編が巧かった

はじめて飛び込んだ短編の世界は、とても面白かった。僕が憧れた作家はみんな短編が巧かった。サリンジャー、カポーティ、芥川龍之介。コナン・ドイルやボルヘス、梶井基次郎もそうだ。たったほんの数十ページを読むたびに、僕は目眩がするほどの夢を見た。

いままでは公募の規定に合わせて書くばかりで、まるで僕の身の丈に合わず、締め切りが来たらそこで書き上げてお終いだったときと比べて、僕はようやくそこではじめて文章を書くのは楽しいものだった、という感覚を思い出した。書き続けるにつれ、短編という形式はどうやら僕の性に合っているらしい、と気が付いた。長編を書こうと試みていた頃、僕は何とか最後の地点まで溺れないように必死で息継ぎをしながら書いている感覚があった。でも、短編という短い枚数なら、僕はきっと溺れずに書ける。最後まで息を潜めて泳いでいける。

昨年から書きはじめて、いま書いているもので短編は第七作目になる。だいたい三〜四ヶ月に一作くらい。標準よりも遅い方だが、僕にはこれくらいのスパンがいるとわかった。いまの第七作目はまもなく一万字を迎える。

いまのところ、僕の短編作で代表作になりそうなものは二番目に書いた「ハイライトと十字架」だけど、この七作目がもうひとつの代表作になってくれるんじゃないかと書きながら思っている。

これを公募に回すかは悩みどころだけど、次に書く第八作は久しぶりに短編の賞に応募してみようかなと思っている。今年は文藝賞が一年限定で短編の募集があるらしい。短編の賞で応募した、または知っているおすすめの短編賞があれば、ぜひコメント欄に書き残していってください。近況とかでもかまわないので、気軽にどうぞ。雑談スペースとして使ってもらえれば嬉しいです。

では今日はこれで。

kazuma

おまけ(一馬日報):今日はカポーティの初期短編をいくつか読んだ(この記事のアイキャッチ画像にしました)。高校生から20代前半までの初期作品を集めたものらしいが、あまりにも上手すぎて舌を巻く。こんなものを二十歳前後の青年が書いてしまうのか、ちょっと信じられない。

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