短編新作『バナナフィッシュのいない夏』について
こんにちは、kazumaです。三週間ほど前に短編の新作を書き上げた。『バナナフィッシュのいない夏』というタイトルで、noteにアップしている。バナナフィッシュ、とあるように、今回の作品はJ・D・サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』のオマージュだ。新作短編はこれで第三作目となる。だいたい三から四ヶ月にひとつ、短編を発表するのが、僕にとってはちょうどいいリズムだったらしい。また秋ごろに発表できればと思う。作品を読んで、ひとりでもサリンジャーに興味をもつきっかけになってくれれば、本望だ。
新作短編はこれまですべてオマージュで、一作目の『赤い風船、笑うピエロ』はカポーティの『ミリアム』から、二作目の『ハイライトと十字架』は同じくカポーティから『ティファニーで朝食を』、そして本作がサリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』から。作品そのものを真似ているわけではないが、その本たちからイメージを膨らませてつくった。重要なキーとなるモチーフを各作品から拝借しているので、厳密にオリジナルの作品とは呼べない。次回作は、そうではなくて、僕自身の興味関心からつくった作品をつくりたい。
Twitterには時々出没しているが、SNSは少し控え目にしている。ぽつんぽつんと雨垂れのようにつぶやくのがいちばんいい距離感だと思うのだけど、使っていると時折豪雨のように連投してしまうことがあるので、意識的にセーブしている。メンタルの調子が悪い時に、たまたま目にしてしまった通り魔のような言葉に引っかかってしまうこともある。そういうときは、電源ごと落として通信をまるごと遮断してしまう袋に入れてしまう。それからテーブルの引き戸の奥に入れておく。床に転がって心ゆくまで考え事をする。寝てしまうのがいちばんだ。
近況
近況、と言えるほどのことはないけれど、いまの職場を退職することが決まった。辞めたあとはライターを目指そうと思っている。半年ほど前からランサーズでライティングやタスクの簡単な案件を受けるようになった。まだ雀のなみだほど。ただパソコンひとつで、文章を書いて上げれば、それでお金がもらえるというのは僕にとっては魅力的だった。それで食べていくとなるとよほどのことだろうと思うが、ものを書いて食べていくという夢を僕は棄て切れなかった。この時期、僕は小説や文学とはまったく関係のない文章を書いた。購入したもののレビュー、街中のおすすめスポット、病に関わることについて、大学の研究モニター、英文のサンプル作成、ECサイトの使用感、などなど。
僕はひとと関わることにものすごく難がある。同じ年代の人間がとっくに身に付けているであろう世間話ひとつできない。世の中にあるものをほとんど知らない、それでも生きていかなくてはならない。僕にはメジャーの生き方はできない。マイノリティはマイノリティの道を見つけなくてはならない。ひとと関わることが難しくとも、病を抱えていこうとも、僕は僕の役を引き受けなくてはならないのだ。それはメジャーだろうが、マイノリティだろうが同じだ。部屋の外に一歩出れば起こる、ありとあらゆる納得のいかない出来事を目の前にして、それでも僕らはそれらを改変することはできない。職場に行けば、些細なことで非難される、鼻持ちならないやつに出会う、道を歩けば偏見やこころないひとの目に晒される、ごくわずかの親しい友人にさえほんとうの悩みは理解されない、同じ屋根の下で価値観のまるで違う人間と暮らす、これまで生きてきたなかで出会った人達から遠く隔てられたところにいるように感じる、そういうすべては僕個人のちっぽけな意識や納得の域を遥かに超えて進行する。自分ひとりであがいてみてもどうにもならない。いくらそれを嘆いたり、批判したり、恨んだとて、対立的な概念を持ち出しているうちは、克服されない。原因の根が過去からやってきたものを改変することはできないのだ。
福田恒存の『人間・この劇的なるもの』
いま読んでいる本は福田恒存の『人間・この劇的なるもの』という本なのだけれど、その中でこんなたとえがある。劇中の人物を演じる演者は、この劇の行く末をすべて知っていながら、なおその舞台にいる合間はいま正にそのことを知ったように演じなくてはならない、という。
役者のせりふは、戯曲のうちに与えられており、決定されている。かれの行為にはわずかの自由も逸脱も許されぬ。どんな細部も、最後まで、決まっているのだ。いいかえれば、未来は決まっているのだ。すでに未来は存在しているのに、しかも、かれはそれを未来からではなく、現在から引き出してこなくてはならぬ。かれはいま舞台を横切ろうとする。途中で泉に気づく。かれはそれに近づいて水を飲む。このばあい、気づく瞬間が問題だ。泉が気づかせてはならない。かれが気づくのだ。かれが気づくまでは泉は存在してはならないのである。
すでに決定されている行動やせりふを役者は、生まれてはじめてのことのように新鮮に行い、新鮮に語らねばならぬ。ここでも二重性が問題になる。戯曲のうちには、それを読んでいるものもいようし、二度見るものもいよう。それでも、彼らははじめてのものとして享受したがる。そのためには、役者は未来に眼を向けてはならぬ。現在を未来に仕えさせてはならぬ。かれは現在のみに没頭する。芝居の最後まで知っていて、しかも知らぬかのように行動すること。
『人間・この劇的なるもの』新潮文庫 福田恒存著
ここにどうやら、ままならない世界で生きるためのヒントが隠されているように思えてならない。もしかしたら、僕の人生は一から百まで、最初からすべて決まっているのかもしれない。生まれてくる家は選べない、誰の子供になるか選べない、どういう環境で育つのかも選べない、それによって左右される行き先も、自分では選んだと思っている人生の別れ道も、ほんとうには選んだ訳ではなかったのかもしれない。最初から劇の筋書きがあって、それによって与えられた役割を演じるだけに過ぎないのかもしれない。先のことを考えると雲行きはあやしく、何となく行き着く先は昏いように見える。もう最初から結末が見えているような気がしてくる。にもかかわらず、実際にはそれらは見えていないのだ。まだ見てはいないものを、さも見たかのように扱ってはならないのだ。
学芸会の記憶
僕が人生で唯一しなくてはならないことは、僕の役割を演じることだ。小学校の頃、学芸会があった。僕は舞台の隅でダンボールに緑色のマジックで塗った草むらを持って立っていた。とくに台詞があるわけでもない。主役の座はいつも必ずクラスの華やかな人間が取っていて、僕はいつも余りの役を引き受けた。一言も話さずにただ草むらの段ボールの後ろに息を潜めて、時間が来たら袖へ引っ込んだ。そして入れ替わり立ち替わり演じていく同級生たちを眺めていた。スポットライトの当たる主役の子らは、舞台から降りて普段の日常に戻っても主役なのだ。彼らに草むらで息を潜めて待つ人間の気持ちはわからないだろうと思った。そして同様に、常に人の輪の中に立ち続けていることの辛さも、僕には分からなかった。
タイムラインと友人
つい先日、あるタイムラインを見たときに偶然、学生時代の友人の投稿に気がついた。彼は僕と同じように地元へ戻ってきていて、病院の中で会った。似たような背景を持って育っていて、彼はそのことで苦しんでいるように見えた。僕は何といえばよいのか分からなかった。連絡先だけを交換して、また会おうと言って数年が経った。タイムラインの投稿には彼が梁で首を吊ったことが書かれてあった。生きていることが悲しくて苦しいと書かれてあった。写真のマークのところに彼の顔はなく、別の画像に挿し変えられていた。僕は何か言わなければいけないことがある気がした。
日陰者の文学
僕は一生、草むらの中で暮らすだろう。陽の当たるところには出られないだろう。じっと息を潜めて、夜が明けるのを待つだろう。それをこれから何千回と繰り返して、僕は何者にもならないだろう。
僕が小説の中で叫ばなくてはならないのはそういう負い目を背負ったひとに向かってである。何らかの避けられない理由によって、陽の当たる場所に出られなかった彼/彼女らの物語を。
別に僕自身が叫んだところで、誰にも届かないかもしれない。もの書きがひとり書くのを辞めたところで誰も哀しみはしない。また日常が淡々とはじまっていくだけだ。にもかかわらず、僕は周囲にとって大して叫ぶ必要もない悲しみや苦しみについて、ずっと話していたいのだ。そのことが何よりも大事なことのように思えるのだ。草むらに光を当てて、彼はここに居るのだと僕は言いたい。それがたとえ余計なお節介に過ぎないものであったとしても。
kazuma