書くこと

一馬の手記 2021.5.13

こんばんは、kazumaです。最近、Twitterを先月から自粛していることもあって、なんだかちょこっとだけ言いたいことがあったり、考えをまとめたいときに言う場所がなくなっちゃったなと思っていた。あるんですよね、何か衝動的に走り書きでもしておきたいときが。なので、ちょっとブログで呟いてみることを思いついたのでした。TLだと独り言系のことは、どうもタイムラインを汚してしまうようだし、だったらブログでやればいいかと。これは単なるkazumaの走り書きなので、おそらく何かの役に立つようなことはないと思います。ほぼほぼ僕の備忘録ですが、ひとが読めるような記録にして残しておけば、考えもまとまりやすいかなと。一応、日付と時系列順に記載していきます。何というか生存報告の代わりです。重めのことも平気で書いていくかと思われますので、kazumaの生態を把握したい方だけでだいじょうぶです(需要あるんかな笑)

210513(年月日)

2008(記述開始時刻)

どうして僕には地獄行きの片道切符しかないのだろう。

2010

未公開短編第三作を書き始めた。

2011

iPhoneのアプリでNovel Studioという執筆アプリを入れてみた。なかなか良さそうだ。

2018(2324最終)

ウィトゲンシュタインを扱った本の中にヒントが書かれてあった。

もし仮に本人のみにしか了解し得ない事柄があるとしたら、そのことについては口を噤まなくてはならない。

個人の背負う悲しみも苦しみも、比較計量することができない地点にあるが故に。

僕の苦しみは僕の苦しみで、あなたの苦しみはあなたのものだ。そこに橋を架けることはできない。

誰も僕のことは分からないし、誰もあなたのことは分からない。

──ほんとうにそうだろうか?

じゃあライ麦畑を読んで感じたものは何だったのだろう。ホールデンが昔の奴の話をすると懐かしくなるって言ったときに感じたものは何だったのだろう。バナナフィッシュの浜辺を去ったシーモアが拳銃を撃ち抜いたとき、ホリー・ゴライトリーが「何度やっても繰り返し、同じことの繰り返し」と言ったときに、感じたものは何だったのだろう。

僕は彼らならわかってくれるとその時に信じた。

物語の領域は『私』の境界線上を離れた場所で生じる。

たとえそれが錯覚であったとしても。

言語ゲームの内側にあるとしても。

「この」かなしみが誰にも伝わらないとしても言葉にせずにはいられない地点がものかきにはある。

『わたし』のかなしみが『あなた』のかなしみに読み換えられる文章が生まれたときにそれは物語になる。そのふたつは決して同じではないし、同じにはならない。似ても似つかぬようになっているものだ。それぞれのかなしみは等価記号によって結べるものではないから。

しかし言語の特殊な回路を通じて全く別の地平に繋がることがあるように思う。他のどんなやり方よりも、静かに。

小説を書くということは本来置換不可能なはずのものをパラフレーズによって言い換えつづける、その繰り返しの営み、のような気がする。

読者がその物語を読者の物語として読み換えることが可能であるとき、その物語は既に作者の物語ではない。

書き手がやっているのは、それを読み換え可能なものに変える手助けのようなものではないだろうか。

誰かにとって読み換え可能なものにならない限りは、それはただのひとりごとだ。モノローグだ。物語はその向こう側にある。

僕にとっての「僕の」真実が、誰かにとっての「誰か」の真実であることはあり得ないが、その果実をぽんと放り出して誰かが受け取ることができれば、キャッチボールは成立する。ただしそのときにその果実はおそらく元の形はしていないだろう。それでよいのだ。

物語とははじめからそういうものだ。

サリンジャーがホールデンに託したものと、ホールデンから僕が受け取ったものは、おそらくまったくの別ものだ。

僕は受け取ったものをまた投げるのだ。それを受け取った誰かは、僕が投げたものとは別のものをまたいつか未来に向かって投げるだろう。文学というものがあるとしたら、その繰り返しの中に、ではないだろうか。

2020

カノンってよい名前だと思う。

2027

物語は誰のためにあるのだろうか。

2027

ヘンリー・ダーガーのような生き方が理想だといまでも思っている。

2041

ひとを呪って生きるくらいなら、無くしたものでもさっさと追いかけた方がマシだ。

今日は以上です。

kazuma

「さあ、これからどこへ行こうか?」と鳥は言った。

 

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