一馬の手記

「入院覚書、僕の偏った文学論について」

入院覚書、近況報告

こんにちは、kazumaです。今日は久々に近況などをお伝えします。実は今週、白内障の手術を受けていました。半年ほど前から片目の視界が霞むようになり、手術を受ける前は明るいところだとほとんど眼が見えない状態になっていました。幸いというべきか、片目のみだったので、もう一方の眼でカバーしていたのですが、本も読みづらくなったりしていて、ライターの仕事や創作活動にも支障が出ていたので、入院することになりました。

術後の経過は順調で、色のコントラストがはっきり見えるようになり、裸眼でもある程度見えるほど視力が回復していて驚くばかりでした。不同視といいますか、両方の目で視力差が生まれてしまったので、ちょっと難儀なときもありますが、いずれはもう片方の眼も手術するときが来ると思うので、いまはこれで十分かなと思っています。

入院中はベッドの上で本を読んでいました。笑われるかもしれませんけど、病院でもやることは同じなんです。片目に眼帯を当てたまま文庫本の文字を追っていたのでおかしなやつだと思われたかもしれません。病院の入院棟には休憩室のコーナーがあって、そこに雑多な感じで本が並べてあり、自動販売機やお茶などが出るドリンクサーバーがあって、窓からはビルのガラス窓が連なっているのが見えます。眼がやられていなかったら、なかなかいい読書空間だと思ったかもしれません。

病院は僕にとって小さい頃から馴染み深い場所であるので、どんな病院に行ったときも、妙に安心感があります。患者であることに慣れてしまっているのでしょう。変な感覚かもしれないですけど、ああまた戻ってきたな、と思うんです。もちろん、病院の中にいるときは、はやく外に出たい出たいと思いながら過ごすのですが。そういう帰属意識を持てるような、縁やゆかりのある場所なんて、僕はほとんど持たずに育ったので。

カヴァンの「氷」と読書が捗る場所について

ベッドの上で読んでいたのは、アンナ・カヴァンの「氷」です。この世界で最も読書が進む場所を三つ挙げろと言われたら、春や秋の過ごしやすい季節の河川敷や公園のベンチ、各駅停車の電車内の座席(七人掛けの一番端)、病院の真っ白なベッドシーツの上を挙げます。

なんだかよくわからないけれど、偶然読んでいたこのアンナ・カヴァンの本が病室で読むにはうってつけのように思えたのです。本というか、その中に書かれてある文章というのは、出会うべきタイミングがあると思うのです。長年、散発的に──ときどき起こっては沈めることのできない発作のように──本を読んでいると、いまこの目の前で追っている字面が自分にとってまさに必要なものだと、感覚でわかるような瞬間があります。

そういうことが起こるときって、何年読んでいても、けっこう稀なことなのですが、そんな読み方をしているときにかぎって、読んだことが後々まで残るんです。別に読んでいる内容そのものになにか意味があるとか、そういうのでなくとも、全然構わなくて。

意義のあることだけが読書ではない、表現そのものの美しさに出会う瞬間

僕はカヴァンのたかだか五十ページ弱を読んでいたのですが、途中で謎の少女について記述しているシーンがあって、それが主人公の「私」が探し求めている少女なのですが、カヴァンはその女の子についてアルビノのような、銀白色の髪を持っていて、それを月光に照らされたヴェネチアンガラス、という言葉で形容していました。そして、畳みかけるように彼女をガラスの少女のように扱った、と書くシーンがあって、僕はその箇所を読んだときに、何となくその少女のイメージが浮かび上がるような気がしたんです。鳥の骨のように細い腕といまにも折れそうな首元の鎖骨も、脆くてしなやかなその体躯も。

べつにそんなものがわかったところで、僕の人生や生き方そのものにはまったく影響はないのですが、そういうものがあるのとないのとでは、微妙に、いやはっきりと、読む前と後で変わってしまうんじゃないかと思っているんです。僕はカヴァンの文章を読む前はそういうことを知らなかった、でも読んだあとでその少女の姿がありありと思い浮かべられるようになった。美しい文章というのはそういうものを理屈抜きにわからせてしまう。

春になったので再活動、創作の問題意識

眼が回復して、季節も新しい春になったので、また色々な活動をはじめていこうと思っています。創作については、いまも第六弾となる短編小説を作っているところです。この短編小説を作る前に、「本当の翻訳の話をしよう」という村上春樹さんと柴田元幸さんの対談本を読んでいました。そのなかで、「純文学と思想って合わない(村上)」「文学というのはその中では簡単に答えを出すものじゃないですよね。一方、思想はできるだけ答を引き出そうとする(柴田)」という箇所があって、僕はここにずっと引っかかっていたんです。引っ掛かりがあるということは、ここに僕にとって必要な問題が埋め込まれているように思えて。

僕は学生の頃、生きるよすがのようなものを探して本を読んでいました。それこそ、ドストエフスキーやらサリンジャーやら、カポーティ、ヘッセ、カミュ、ヴォネガットにチャンドラー、フィッツジェラルドやブコウスキーらの本の中に何かしらの人生の答えというか、作家である彼らの人生の結論のようなものを読み取ろうとして、片っ端から手当たり次第に読んでいました。(ブックオフを三店舗ぐらい回れば、当時読んでいたものはほとんどすべて手に入ります)

僕が日本の近代文学をすっとばして、海外文学ばかりを大学時代に読み漁っていたのは、そういう特殊な、はっきり言えば偏った読み方にあったと思います。テキストの中には答えが書いてあるものだと思っていたんですね。無意識に小説もそうだと確信してしまっていた。小説は作家が人生を賭けて挑んだそれぞれの問いの答えが、体現されているものだと思っていた。そういう思想小説のような形で出された本は、日本文学のなかにはほとんど見当たらなかったし、あったとしても僕の問題意識=悩み事とはまったく異なることについて問題としているように見えた。僕には太宰治が言っていることも、三島由紀夫が言っていることも、他の皆が言うようにはわからなかった。作品としては優れていると思っていたけれど、直感的に合わないと感じた。でも海外文学のなかには僕が問題としていたものに近しいものがいくつも芋づる式に見つけられた。

(引っ掛かりのなかに僕の行き詰まった小説の突破口となるヒントがあるんじゃないかと思った)

小説の中に答えがないと気づくまで

「思想小説」に僕が入れ込んで、そこに安住していたのは、いまそのときに悩んでいるものごとの答えというか枠組み(フレーム)そのものを、壊してくれるように思っていたからです。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のイワンが大審問官のなかで言ったセリフに僕は打たれましたし(多くの人はアリョーシャの側に立つでしょうが)、理由らしいものなんてほとんど何にも残さずにピストル一発ですべてを終わらせてしまうシーモアになぜか惹かれてしまったり、200頁以上に渡って世の中のあらゆるものに向かって文句を言い続けているホールデンのこともなんだか庇いたくなった。(「バナナフィッシュ」も「ライ麦」も「思想小説」ではないんでしょうが、僕はそういう風に読んでしまった。他の本も同様に)

でもそういう小説というか文学そのものに答えを求めていては駄目なんだと村上さんや柴田さんは言うわけです。(ジョン・レノンを撃ったマーク・チャップマンの誤読について翻訳夜話2「サリンジャー戦記」のなかで指摘されているそうですね)

僕は本を読めば読むほど、自分の人生の指針というか向かうべき方向がわかるようになるのだと思っていました。それだけ体験しなかった人生のサンプルというか結晶のようなものが集まると思っていたから。でも実際は、読めば読むほどわからなくなっていって、正しさや固定した解に立つものはなかったんですね。あるのはただの個別的な、その作家というか登場人物たちの人生そのものだった。その人生においては解なのかもしれないし、それ以外にはありえなかったのかもしれないけれど、僕の人生に持ってきたときに同じように機能するわけじゃなかった。答えというのは当時の僕がそう錯覚していただけであって、実際は本を読むたびにスタンスがどんどん変わっていきました。あれでもない、これでもないと頭の中でひたすら修正を繰り返していました。

そして現実の人生に直面したときに、まったく整合性を取ることができない(つまり本やテキストの中に書かれてあるものではまったく歯が立たない)ものごとにぶつかってしまって、十九の僕は完全にノックダウンしてしまった。本の中に答えが書いていなかったと結論付けるのは、それから随分あとになっての話です。

僕は何を書けばいいのか?

じゃあ答えが書いてないなら、何を小説の中に書くんだよって話なんですが、答えじゃないもの、理屈じゃないものを書けばいいんじゃないかって思ったわけです。

「ハイライトと十字架」という短編小説を書いた時に、僕はそのなかの僧侶の口を借りて、僕がずっと悩んでいたことの答えのようなことを書きました。あるいは亡くなってしまう杏奈という少女の口を借りて、思いの丈を綴りました。でもそのやり方が正しかったのかどうか、僕にはまだいまひとつ確信が持てないんです。

作品を読んでくださった方の中でひとりだけ、感想を記事にしてくださった方がいました(書いてくれてどうもありがとう)。その感想を読んで思ったのは、読者に届くのはそういった人物たちから発せられる答えそのものではなくて、その答えらしきものの間で揺れ動いている人物そのものではないかと思ったんです。どの答えにも行き着くことができずに悩み続ける人間の姿そのものが、読んだ人を動かすのではないかと。

小説の中で答えを提示するのではなく、

カミュの「異邦人」が実存主義という思想を表した小説、いわゆる一つの答えを提示するタイプの思想小説であるにもかかわらず、打たれるものがあるのは、単に実存主義の思想をそのまま小説の枠組みの中に持ってきたわけではないからです。主人公のムルソーが理屈では説明できないものごとに出くわし(「今日、ママンが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、私にはわからない」)、太陽のせいだと言って発砲し、司教に食ってかかって叫ぶその瞬間に、生きたひとりの人間の叫びを見るように思うからです。答えがそこに書かれてあるとか、ないとか、そんなことはどうだってよかったわけです。

サリンジャーのホールデンも同じで、彼はべつにイノセンスの原理主義者ではなくて、実際には大人の世界に出入りしようとして、ニューヨークの街を出歩いて片足を突っ込んでいます。でも結局は受け容れられなくて、ラジエーターの上に腰掛けてピアニストにさっさとうちに帰れと言われるんです。でもホールデンには帰る場所なんてはじめからない。「帰る家がないんだよ」って言う。そして回転木馬に乗るフィービーを見て、唐突に雨が降って、小さな彼女に赤いハンチング帽を被らされて、わけもなく彼は叫びたくなるような幸福を感じる。そこに誰もつかまえてくれなかったひとりの少年の苦悩が描かれているように思うから、動かされるものがあるんです。

バナナフィッシュのシーモアに惹かれるのも、誰にも理由なんて明かさずに(少なくとも作者の分身であるバディ・グラス以外には)オルトギースの銃口をこめかみにもってきてしまうだけの理由というか、シーモアの苦悩がまったく明かされないことによって、却ってその背後に人間味を感じてしまう。シーモアがいなくなったあとの銃声、その余白の中に揺り動かされてしまう。

僕は小説の中に答えを求めながら、結局は答えではないもの、理屈では説明できないものによって打たれていたと思うんです。それを純文学と呼ぶのかはわからないけれど、僕が目指しているものは間違いなくそれなんです。

いま取り組んでいる短編小説の制作について

それでもういままで書いてきた小説の中で作者の思想や主義主張を詰め込んだような小説の系譜は、僕の中で終わらせようと思って、それでその系譜の最後にあたるものを書こうと思ったんです。純文学というジャンルでそれをやろうとしてもかなり難しいことだと気がついたので、敢えていままであまり書かなかったジャンル小説という形でやろうと思いました。

作者の主義主張が展開されている小説って存在しないわけではなくて、ヴォネガットはSFのなかに自身の哲学のようなものをおそらく入れていますし、チャンドラーの探偵ものもやっぱりフィリップ・マーロウその人のなかに、独自の哲学観を入れてあるわけです。純文学でやろうとしてもうまく機能しなかったものも、特殊な設定というか世界観のもとでは、ひとつのスパイスみたいに使えるものだったんじゃないかと思って。いまはそういう実験をやってます。

これを書き上げたあとで答えを求める小説にはピリオドを打って、第七作目にあたる小説ではそれと真逆の、答えのない小説、理屈ではないものによって駆動する物語はどうやって書けばよいのだろうかと考えながらつくってみようと思います。

途中から僕の文学論みたいなものになってしまったわけですが、長くなったので今日はこれで。

P.S.タイトルの付け方の【後編】、いい加減に取り組みたいと思っているのですがなかなか取り上げられずすみません。そろそろ近いうちにやります。あとブログがgoogleアドセンスに通ったので広告が表示されるようになりました。独自ブログ運営において必要なことなのでご容赦くださいませ。

22.4.2. 20:59

kazuma

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