
こんにちは、kazumaです。何と言えばよいか、わからないけれど、いつの間にか今年の夏が終わった。実を言うと、僕はちょうど昨日が退職の日だった。休日に職場から電話が掛かってきて、もう来なくてもいいんだ、と言われた。別にそれは悪い知らせではなく、僕が何かをやらかしたというわけでもなくて、単に会社の上の人間が有給の計算を間違えていて、もう出なくても退職の日の分までそれが使えるからと言うことらしかった。三年半働いて、有給をほとんど使わなかったので、丸一ヶ月分くらい、残っていたらしい。僕は明日の準備でもはじめようかと思っていたところで、お世話になった先輩に礼を言って電話を切った。わりとあっけなく、僕が守ってきたささやかな日常は無くなった。こんなもんか、昔はどうだったっけ、これからどうしようか。そういう一切を投げ出して、フローリングの床に横たわる。カポーティの小説よりもあっさりと現実の幕は閉じる。綺麗な位置に句点が置かれることもなく。
僕は作家になりたかったが、なれなかった。昔の友人たちの顔は今では遠くかすんでいる。多分、街ですれ違うことがあったとしても、僕は目も合わさず、挨拶もしない。そこに知り合いなど最初からいなかったように振る舞うだろう。学生の頃から連絡を取り合っていた最後の友人とも縁を切った。僕の昔と現在の両方を知っている人間は、もう親類以外にはいない。僕がなぜ変わったのか、誰にも見分けが付かない。鏡に映る自分の眼が、まるで別人のように見える。その瞬間に僕は不意に怖くなって回転式の全身鏡を壁の方へと裏返した。なにに怯えているのかも分からぬまま、壁にできたいくつもの窪みを眺めていた。そのひとつひとつの凹みを見るたびに、手当たり次第に投げつけたものの記憶を、その時の感情を、まざまざと思い出した。その壁と向き合いながら、僕はものを書いている。
最近、ヘッセの『荒野の狼』を読みはじめた。屋根裏部屋に突如として棲みついた不思議な男の話。まだ冒頭くらいで大して進んではいない。荒野の狼、と呼ばれる男は階段に腰掛けて、南洋杉の匂いを嗅いでいた。それは荒野の狼が決して得ることのできない、ささやかな彼女らの日常を、男に思い起こさせるからだった。この平和な時間に、小さな隙間から身を入り込ませて、たとえたった一時間でもその場に身を浸していたいと、男はそう願うのだった。
読書の時間は通勤時の電車でやっていた。六駅くらいのたった十三分間を繰り返した。いつも降りる一駅前で頁を閉じて、座席の中で目を閉じて思い返した。ホームに降りる頃には、僕は自分が何者であったかも忘れて、そのまま職場のエレベーターの階数ボタンを押していた。どうやったらこの歯車の狂った人生を受け入れることができるのか、わからなかった。昔は、きっといつか、こんな不可解な窪みに入り込んだ人生の意味も、必ずわかるような地点があるのだと思っていた。いまにこの無限につづく繰り返しの日々が、このためにあったのだとわかる瞬間が訪れるのだと、終末論の預言を信じる信者とほとんど同等か、あるいはそれ以上の強度で、信じていた。でも、蓋を開けてみればゴドーなんていつまで経ってもやってこないし、なんなら彼が誰であるかもまるで分かりはしなかったのだ。
学生の頃に欲しかったものは、働いたお金で大体手に入れた。執筆にまつわるものに関しては、惜しまずに使ったので、もうこれ以上ないくらい、道具は揃っている。でも二十代の貴重な時間をほとんど最低賃金の労働で溝に投げ捨てるような生き方をした。ありとあらゆる人間関係を断ち切った。オフラインの画面でタイプするとき、はじめて僕はそこで息が吸える気がした。僕の歩んできた道は間違いだっただろうか。
人間不信の感はずっと拭えずにいる。職場を辞めるたびに、もう社会でやっていくことは難しいんじゃないかって毎回思う。作業の内容は好きで続けられるのに、いつも対人面でだめになっていく。ひとりで壁に向かって喋っている方がよほどいい気分だ。ちょうどこんな風に。安定剤と眠剤を口の中で噛み割って眠る。明日はきっと違う日が来るのだ、明後日には来るのだ、来週には来るのだ……、そんな風に錠剤を噛み割り続けて十年が経とうとしている。なんにも変わらなかった。舞台から降りても劇は続いていた。僕にいったい何の役ができるだろう。こんなのはただの道化と同じではないのか。
十年経ってもだめなら、もう十年やればいいじゃないか。どうせいまはなかったはずの人生を生きているのだから。そういう言葉が、胸の内から聞こえてくる。文章を書いて生きていくということを、最後に試してみてもいいんじゃないか。それが自分の望んだ物語の書き手ということではなかったとしても。
朝から小説を書いて過ごした。昼に書房の本を一冊上げて、ライティングの案件をやり、興味関心のあることはブログに綴る。それですぐに食べていけるわけではないけれど、何もかもを諦めてベルトの革を梁に掛けるよりはよほど気が利いている。もう僕は夜中に河川敷の縁から身を乗り出したり、すべてを呑み込んでしまう化け物のようなあの河の色を見たりしたくないのだ。
ネットを眺めていると、毎日ものを書いている人がいた。辞めた後はそういう生き方をしてもいいかもしれない。それでどこに辿り着くのかは分からないけれど、このまま船が沈んでいくのを待っているよりは、きっといい。
繰り返す日常がなければ、僕らはいとも簡単に狂っちまう生き物だから。
彼は自分の孤立、水中の遊泳、根の喪失をはっきり確信していたから、市民の日常の行動をみると、たとえば、わたしの正確な通勤とか、召使いや電車の車掌の話し方をみていると、時には実際に全く皮肉ぬきで感動することがあった。(略)
しかし、わたしは次第に思い知らされたのだが、彼は実際わたしたちの小さな市民世界を、彼の真空地帯から、異様な荒野の狼の気持で、ほんとに感嘆し、安全確実なものとして、はるかな及びがたいものとして、行くべき道のない故郷、平和として、愛していた。彼はわたしたちの正直な通いの女中に、いつも心からうやうやしく帽子を脱いであいさつした。また、伯母がちょっと彼と話したり、洗濯物のつくろいや外套のとれかかったボタンのことを注意すると、時に注意深く大事そうに耳を傾けた。それはまるで、どこかの隙間からこの小さい平和な世界へ侵入して、ほんの一時間でもそこに住みたいと、いうにいわれぬ絶望的努力をしているかのようだった。
(『荒野の狼』)ヘッセ著 永野藤尾訳 講談社文庫より引用)
21.09.11
kazuma