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一馬日報(手記) 文芸活動記録 記念行事

「未来の空想」

新しい執筆の相棒、M1 Macbook Air。ついに未来に来てしまった。

こんにちは、kazumaです。久々の記事投稿だ。

退職が目の前に迫っている、あと一ヶ月ほどで僕はいまのネット書店のバックヤードからいなくなる。特にこれから先にアテがあるわけでもない。辞めたあとは、ライティングと書房と別のアルバイトを見つけて食いつなぐと思う。

作家志望の回想

ものを書き始めたのは十九の頃からだが、それから十年間、合間を縫っては小説を書いてきた。ほとんど文芸関係のことに費やした。悪くはなかった、それなりに文章らしいものは書けるようになってきた。おかげで他のものはみんな溝に捨てた。交友関係も片っ端から切れていった、精神的な病も抱えることになった。それでも僕は歩いてきた道が間違いだったとは大して思ってもいない。こうなるしかないものは、こうなるしかなかったのだ。

最初の五年間はほとんど公募まっしぐらだった。書き続けていればいつかは通るぐらいに思っていた。大学の単位もゼミ授業以外はすべて取り終えていたので、執筆にかけられるだけの十分な時間があった。卒業後は作家になると息巻いてそれがどういうことかもわからずに就職活動さえまともにしなかった。単純に人と話をするのが絶望的なくらい嫌いで、本の活字を読んでいる方が遥かにましだったから。東京の会社でやっていけるタイプじゃない。典型的な、もっともダメな文学部生だ。

卒業後は地元に戻ってスーパーで働いた。朝の六時に起きて、薬の副作用に苦しみながら、文章や本とは全く関係のない仕事をした。僕は一番憧れていたものにもう関われないのだと思いながら、野菜の段ボールの角で手を切って、カーゴに無分別に投げ込まれたその茶色い束を見ていた。あの時に指先から流していた血のことを今でも覚えている。真冬の冷凍倉庫の中で帰ったら小説を書こうと、今日こそはと、そう思いながら自分では全く食べもしない冷凍食品の在庫を震える指で数えていた。

僕が深夜の三時に椅子から転げ落ちて倒れていた頃に、友人たちはそれなりに浮き沈みがありながらも、家庭を手にしたり、いつの間にか父親や母親になっていたり、真っ当な職を得て、ちゃんと暮らしているようだった。ひとり、ふたりと疎遠になった。馬鹿げた夢を見続けているのはどうやら僕だけだったらしい。かつての友人たちはもう、僕の連絡先の中にはない。容易に辿り着くことも彼らにはできないだろう。

書いたものは紙屑だけだ

ちょうど書き始めてから五、六年が経とうとしていたとき、ある人からこんなものは小説でもなんでもないと言われた。それまで、僕は我流でやみくもにものを書いていた。六年もの歳月を、ほとんど手癖だけで書いていたのだ。それまで正面切って、書いたものを切り捨てられたことはなかった。批判する値打ちさえない作品を書いていたから。

その後、僕は文学学校やもの書きのグループを出入りするようになって、リアルの知人たちにも時折、書いた作品を手元に押し付けて(無礼千万かもしれないが)、意見を求めた。返ってくる感想はやはり芳しいものではなかった。じゃあ僕が今まで書いてきたものはいったい何だったのだろう。何かが崩れていくような音がした。目の前の原稿の束が、作家であることの証明ではなく、ただの紙屑へと変わっていった。

その辺りを境にして、僕の誇大妄想でできた奇妙でグロテスクな紙の城に、現実の影が忍び寄ってきた。自分のことを果たして胸を張ってもの書きと言えるのか? このまま文学とは全く関係のないアルバイトを続けながら、肥大化した自意識のカタマリのような文章を延々と打ち続けるのか? それで誰かひとりでも喜んだりするのか? 

当時、僕が書いていた文章について、ほぼ全員が一致して指摘したことがあった。この文章の中には、何もない。形がどれだけ整っていても、空っぽで、そこには他者が存在していない。読んでいて何も感じない。書き手は傲慢で、読者を置き去りにしている。

そういうものを人に読ませるのですか? 時間の無駄ではないですか? あなたは誰のために書いているんですか……。

誰のために書くか? 小説とはなんなのか?

書けば書くほど、誰のために書くかわからなくなった。僕が思い込んでいた小説像と周囲の人間が思う小説像には致命的と言えるほどの乖離があるのではないか。僕は小説についてちっともわかっていなかったと認めざるを得なかった。それがわかるまで、何年の時間を掛けようと、ダメなものはダメなのだ。行き詰まった。

スーパーを退職したあと、次の職に移る前に古物商の資格を取った。本に関わる仕事をどうしても諦めきれなかったからだ。その後、一馬書房を開店してからいまのネット販売の中古書店の会社に入った。

思えば少しずつ僕は諦めていった。思い描いたような作家の生活(そんなものはハナからない)、友人たちのようなまっとうな暮らし(特殊な事情と病を抱えていては望めない)、社会でなにがしかの役割を果たして生きていくこと(世の端っこにぶら下がっているだけでもう精一杯だ)。

誰かが歌っていたことだけど、信じたものは皆メッキが剥がれていく。

僕は十年経っても同じ場所をぐるぐると廻り続けている。皆は何者かになっていくが、僕は一生、何者にもなれない。相変わらず宙ぶらりんの痛々しいダンスを真っ白なノートの上で踊っている。それでもものを書いて生きていく夢を棄て切れなかった。このペン先が描く青い線がいつかふつりと切れてしまわないかと怯えながら。

再読

この前、noteに上げた短編作品の読み直す機会があった。作品としては無視されたり、批判されたりもしたけれど、思ったより悪くなかった。自分で言うのもなんだけれど、思ったより悪くなかった。そのことにちょっとびっくりしている。なんだか言いたかったことに少しずつ近づいていっている気がするのだ。

僕はかつて作家志望で、十年経っても作家になれなかった人間だ。でも、それを嘆く必要はまったくないと思っている。書き続けることだけがものかきであることの必要条件で、それ以外にはなにもいらないのだ。

世の中は段々と、僕みたいなへんくつ人間も、そうでない人にとっても棲みづらいような場所になってきている。声を上げるならいまだと思う、自分の思った方向に進みたいならいまだと思う。そういうタイミングの渦中にいる。選択肢の分かれ目に立っていると思う。

未来について思うこと

僕は言葉で人を助ける手助けがしたい。仕事はネットのライターとして、個人としては小説を書くことで、あるいはkazumawords.のブログやnoteを通して発信することで、僕の言葉で届かなければ、一馬書房の活動で古本を届けることによって。

僕は商業作家にはなれなかったかもしれないけれど、もの書きにはなれたよ、ライターになれたよ、古本屋の店主になれたよ、この十年間もその先も、ものを書くことだけは諦めなかったよ、そんな風に未来で言いたいのだ。

M1 Macを買った話

今からちょうど一週間ほど前に、貯金をはたいてM1 Macを買った。僕はこれまでずっとWindowsを使い続けてきたのだけれど(その理由は以前話した)、ちょうど十年の節目と、退職も重なって、そろそろ僕は新しい方向へと歩き出したかった。大学時代に深夜まで働いていたアルバイトのお金を僕は十年、机の中に残していた。封筒は昔の地方銀行のもので、しわくちゃになった封筒からは旧紙幣が数枚出てきた。亡くなった祖母が贈ってくれた物もあった。少ない給料から毎月一万ほど天引きして、なんとかやりくりして、認定整備品の新古品を十万以内で安く手に入れた。この文章はいま初めてMacで書いている。新しい相棒はsurfaceとギリギリまで迷ったが、これから何年も使っていくことを考えて、人生で初めてMacを選んだ。後悔はない。

あとは書いて生きてくだけだ。周りのものがすべてなくなっていっても、僕の書いたものが残ることはなくとも、かつて会った人びとが遠ざかっていっても、僕はずっと一(はじめ)からこの机の前に座っている。昔、病棟の中でひとりで空想し続けていた頃のように。この檻のような場所から出たら、きっとこんな風に生きるんだと、信じていたことを、僕はいまやろうとしている。

僕にとっての小説

誰も彼もが忘れていった人間の話を僕はしたいのです。あらゆるコミュニティから切り離され、この世のどこにも居場所を求められず、一人ぼっちで街をさまよい、心を閉ざし、慰めになるのはただ空を見上げるような空想ばかり、信じられる人は一人もいない、そういうひとに読んでもらえる話を僕はずっと書きたかった。

kazuma

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「商業作家(公募)を諦めたっていう話。」

書くことを諦めたわけじゃない。

 おはようございます、kazumaです。今日は休日なので朝からこの文章を打っている。ここで一旦、自分の文芸に関するスタンスを確認しておきたかったので、ブログに記しておく。タイトルはちょっとだけショッキングだが、このブログをはじめた最初の記事から公言していたことを改めて書いているだけだ。

 僕は大学を出たとき、まともな就職活動はしなかった。一次試験のペーパーテストだけ受けて途中で帰った。いまでも覚えているが、面接前の会社説明会で集められた志望者たち同士で二人組を作って、与えられたテーマについて話し合ってください、というものがあった。家族についてだとか、そんなどうでもいいテーマだったと思う。周りは制限時間の十分まで(むしろその時間を過ぎてからも)ずっと会話を続けていたが、僕たちの組は一分も会話が続かなかった、僕が全然喋らないやつだったからだ。そのとき、僕はこれからこれがあと何年繰り返されるのだろうかと思った。馬鹿馬鹿しくて仕方なかった。まともな育ち方をしなかったせいか、誰とも喋れる気がしなかった。話すことなんて最初からないだろ、何を言ったって伝わらないだろ、大事なことは小説の中だけで言っていればいいだろ、どこかでそう思っていたし、いまでもまだそう思っている。病棟の中で窓の外の景色を見ていたときから、まだ半年も経っていなかった。もうまともな世界に戻ることはないと、病院の敷地を出たときからずっとわかっていた。僕はその説明会でげらげら笑って喋り倒していた連中が一度も見たことのない景色を見たあとにその会場の椅子にひとりぼっちで座っていた。無言で中央線の改札を抜けてさっさとその場を後にした。二度と面接は受けなかった。

 いま思うとでっち上げだったのだろうと思う、都合のいい嘘だ。他に適当な嘘が付けないので(僕はどうも昔から頭がわるい)、他に卒業後の行き先を説明することができないので、まるで僕は最初から小説家になるつもりで生きてきたのだと「信じ」こもうとしていた。その暗示は、二、三年はうまく行った。自分が何を書いているのかも知らないし、それが一銭にもならない種類の小説であることをちっともわかっていなかったし、なによりその小説は中身のない空洞のようなもので、もはや小説と呼ぶよりもただの妄想に過ぎないものだった。いまでも僕はそんな妄想だけしか書いていない。大学からの卒業後の進路を記載する欄は空白にした。その時、過去のほとんど全ての人間関係を断ち、連絡先を葬った。

 僕には嘘でも生きていく目的が必要だったのだ。そうでもしないと、人生の無意味さに耐えられずに押し潰されてしまいそうだった。会社説明会から立ち去るばかりか、ベルトを部屋のフックに掛けるか、さもなくば河にでも身を乗り出してしまいそうだった。ある日、真夜中の河川敷の橋の上で真顔で立っていたことがある、大雨の日に誰も知らない街の橋の下で濡れたアスファルトにただ座っていたことがある、真冬の公園のベンチに座って夜が明けるのを待っていたことがある。全部、どうでもいいことだ。それになんの意味があるだろう?

 僕は八年間、小説を書き続けて毎年公募にも出したが、一度も賞をもらったことはない。もらわなくてよかったなと思う。こんな勘違いをした人間の書いたものに、何かの手違いがあったとしたら、僕はきっともっとおかしな人間になっていっただろうから。頭がわるくてよかった。冗談抜きでそう思う。誰にも共感されないただのお話を書き続けた。馬鹿げた八年間の過ごし方だった、でも他に生きる道なんて知らなかったのだ。壁に頭を打ちつけて暮らしたことのない人間になにがわかるだろう。

 卒業後に本の仕事と思って勤めた書店のアルバイトは半年も続かなかった。そのあとすべてを諦めて地元に帰り、スーパーの品出しのアルバイトを二年半続けた。いまは古本の通販会社のバックヤードでこそこそと鼠のように働いている。その間にも病は僕の中にずっと棲み続けた。惨めだった。信頼できる人間はひとりもおらず、書いて痛みを吐き出すことだけが生きている理由だった。何を言っても自分の思い描いたような形にはならず、輪郭はずっとぼやけ続けるままだった。作品を発表しても無視と傍観と批判と文句の嵐だった。こんなくだらないものを送ってくるなと突き返された。何度も、僕は面と向かって怒られたことがある。僕がそこに書いてあることの意味がまったくわからない、読者を馬鹿にしているのかと。文学学校の合評会に出したときは、十人中十人が僕の書いた小説にバツを付けた。でも、僕には彼らがなぜ怒っているのかまったく理解できなかった。飛び入りで参加してきた若い学生には、あなたはなぜこんなくだらない小説を書いているんですかとはっきり言われたこともある。さっさとやめてしまえ、と言わんばかりに。ただ僕には彼らの言っていることが正直に言ってあまり理解できなかった。なんだかどうでもいいことの揚げ足取りに見えた。同じ景色を見たことがない人間に向かって、ことばにならない苦しみをどう表せばいいのか、その方法がわからなかった。壁に穴を開けたことがある、指の関節が赤くなるまで殴ったことがある、部屋中のありとあらゆるものを蹴り飛ばしてひっくり返したことがある。僕は見た目通りの人間ではない。どんなに低く見積もっても、まともではない。サリンジャーの短編のタイトルを思い出す。『I’m crazy』。

 僕が書きたいのは純文学ではない、誰かに見られて賞賛を浴びるような小説ではない、中央の文壇に認められるようなものでも、不特定多数のいいねをつけられるような小説でもない。僕は僕と同じ苦しみを知っているやつだけに話をしている、最初からそいつにだけ話をしている、ひとりぼっちでいる、誰と一緒にいても一緒にはなれないホールデン・コールフィールド、あるいはアフリカの掘立て小屋まで行って、二度と帰ってくることのないホリー・ゴライトリー、バナナフィッシュの浜辺を去ってさっさと頭に拳銃でも当ててしまいたくなるシーモア・グラス、そういう人間に向かってだけ、僕は話をしている。なぜなら僕はそういう人間に向かってしか、話ができるような気がしないからだ。そういう連中以外には、言いたいことなんて何もないからだ。世の中の人間とは真逆の方向へ向かってずっと走ってゆく、そういうひとに向かって言葉のバトンを渡したいからだ。そしてそれ以外に、僕がこの人生でほんとうにしたいことはないからだ。進んでいく方向なんてどっちだってよかったのだ。どんな道を選んだって同じだったのだ。いま立っている場所から前に進みさえすれば。あるいは、この世の瀬戸際でその一歩を踏みとどまりさえすれば。

 なんの説明にもなっていないが、これ以外に僕にできる説明の仕方はない。商業作家を目指す理由は僕の中でなくなってしまった。僕がこれからも書き続けるのは、誰も見向きもしない小説であって、十冊も売れる見込みのない本であって、世の中の大多数から反感を買ってしまうような、そういうものだ。それは本来、最初から僕の中にあるものではなかった、僕が持つべきものでも、進んでいく道でもなかった。プロだろうがアマだろうが、小説を書き続けることに変わりはない。どっちでもいい。僕はいまのこの惨めな生活に納得している、僕が選んだのはこの道だったから。世の中の誰にも知られずに、部屋の片隅にうずくまって頭を抱えて泣いている人間の気持ちがちっともわからない人生なんて、僕はいやだった。そんなものは誠実でもなんでもない。華やかなものは何もいらない、それよりもその辺の道端の側溝で足を踏み外してもがいている、そんな人間の人生の方が僕にとっては誠実だと思う。泥の中でも咲くことのできる華がほんとうの華だ。そう昔、誰かに教えられた。それが僕の学生の頃に教わった、唯一のことだった。他のことは知らない、知りたくもない。真逆の方向へ向かって行く。僕はひとりぼっちになっても歩き続けていくだけだ。他に書くことなんてあるだろうか。

 これからは、というか、これからも、僕は古本の仕事なりなんなりを続けながらものを書いていくことになると思う。日中は倉庫で仕事をし、帰ってからの時間で書房のことをやったり、このブログを書いたり、あるいはこれから進めていくライター関連の案件をやることになると思う。ものを書いて食べていきたかった、その夢をすべて棄てたわけじゃない。形を変えて叶うこともあると思う。僕は食べていくための道としては、ライターを目指していくことにした。それだってすぐに叶うことではないが、これが僕の現実的な夢の着地点だった。

 そしてライフワークとして、僕はずっと世の中から隠れて小説を書き続けていけばいい。日中の仕事やらその他細々としたことは、みんな仮の姿だ。生きていくための嘘だ。ほんとうの嘘をつくために、僕はまだ生きていくことを選ぶ。小説を書くために生きていることはなにも変わらない。これが僕の作家志望の八年間の、そして現実の自分自身への折り合い。

 最後に近況報告を。SNS(Twitter)からは一旦離れた。いまは自粛期間として、新作の告知、ブログ記事の発表、書房の宣伝、ただの連絡先、その他にはとくに使うつもりはない。あそこで僕は心情を綴り続けたが、断片的な、文脈のない140字では、ほんとうに伝えたいことは何も伝えられないし、実際伝わっているようにも見えなかった。僕には誰かとつながることよりも、誰にもつながらない場所のなかで、ものを考え始めることが必要だったのだといまは思っている。

 僕はまたひとりぼっちの机の前に戻ってきた。昔のことが懐かしくなったら、いつかサリンジャーのような話が書きたい。暗やみのなかを通り抜けることでしか小説は生まれない。物語はほんとうはそういうもののためにあるとずっと昔から信じている。

 kazuma

 2021/04/09 13:16

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“K”

To ”K”

こんばんは。またインターネットに戻ってきた。いなくなっていたこの一ヶ月に僕は探していたものをいくつか見つけた。それは画面越しには決して見つからないものだった。これから歩いて行きたい道の目星が何となくついた感覚があった。こっちの方向に歩いて行けばいいんじゃないか、という勘みたいなもの。そういう感覚が戻ってきたのは、数年来のことだった。

ただその前に僕はひとつ、昔のある友人について、ここで話しておきたいことがある。これから未来へと向かう話をする前の、区切りの儀式として。後ろを振り返り、過去へと向かって敬礼するために。

その友人はいつも僕の前を歩いていた。手を伸ばしても、追いかけても、決してつかまらない速度で。僕はその背中ばかりを見つめ続けた。

大学時代、僕には『K』という友人がいた。在学した四年間でまともに口を利いたのは、両手で数えられるほどだろう。それでも僕は、学生時代のすべての期間に渡って、このKという友人のことばかりを考えていた。僕をここまで連れてきたのは、たぶん、Kだった。

Kはおそらく、もう僕のことなどは覚えてはいないと思う。Kは才色兼備の天才肌で、モラトリアムの塊のような僕とは違い、学内に幅広い交友関係があった。大学構内でKがひとりで歩いているところを僕はほとんど見なかった。Kの隣にはいつも必ず誰かがいた。テーブルに着けば、その場が明るくなり、会話が華やいで、自然と人が集まってきた。偶然、Kと並んで歩いたときには、道の方々で次々とKに向かって挨拶する人物がいた。僕の方はといえば、彼らの名前すら知らず、ただ俯くか、ちょっと遠巻きに眺めているだけだった。男子学生、女子学生問わず、双方に人気があった。僕は底抜けに明るい人間というものを、そのときはじめて目の当たりにした。僕は未だにKを超えるような善良かつ優秀な人間に、出会ったことがない。Kはそのとき、まだたった十八歳だった。

僕がKと知り合ったのは、勇気を出してKに話しかけたからではない。ただ単純に、学部が同じで学籍番号が極めて近かった、というだけの話だ。あまり気乗りのしない、エスカレーター式で上がった私立の大学に、消去法で決めた文学部の門の先にKはいた。

入学式のすぐあとで、新入生歓迎会があった。そこではじめて僕はKを見た。偶然、大学生協で買った四個入りのドーナツを僕は持参していた。するとKにドーナツをひとつ、唐突にひったくられた。あとで聞くと本人はもう覚えていなかったらしいが、僕の方ではKは最初にドーナツをひったくった奴になった。しかし、悪い気はしなかった。ドーナツはひとりで食べるものではないから。それ以来、僕はそのメーカーの袋入りドーナツを買う度に、Kのことを思い出す羽目になった。いまでも、スーパーの陳列棚に並んでいるそれを見ると、なぜか胸が痛むような気がする。どうでもいい話だ。

四月が過ぎて授業がはじまると、お互いに見掛けたときに軽く挨拶を交わすようになった。はじめて上京した東京の街で、何の因果か、ケーキ屋の暖簾をくぐった。Kはドーナツのお詫び、と言ってクッキーをくれた。それは寮の友人から貰ったお裾分けらしかった。国産かどうかも怪しげなクッキーだったが、僕は取りあえず礼を言い、後日、そのお返しのお返しにケーキを買いに街へ出かけたのだった。

Kはフランス語の授業を取っていた。僕もとくに合わせた訳ではないが、フランス後の授業を取った。そういう小さな偶然が、なぜかよく重なっていたと思う。フランスかぶれの助教は僕たちにいつも通り退屈な講義を行い、Kは流暢なアクセントと正確な綴りで満点に近い点を取った。僕は単位取りこぼしすれすれのC評価で、意味もなくフランス語辞典にカラーの付箋を延々と貼る作業を授業中に繰り返していた。フランス語で覚えたことと言えば、単語に男性名詞と女性名詞があることくらいのものだった。ちょうど目の前の席に座っていたKの後ろ姿ばかり見ていたからだ。

その気になれば僕はこのKとの断片的なエピソードを二百行十段落三部構成に渡って続けることができる。しかしそれはおそらく読者諸兄の望むところではないし、この文章を書いている目的にもそぐわない。僕とてあまり気は進まない。相手がおそらく一分たりとも覚えていないであろう過去の記憶について喋り続けることは。透明で、姿の見えない人型のバルーンアートに向かってひとりで話をしているようなものだから。ただ僕は、その透明になったKに、何度も救われたことがある。何か訳もなく哀しくなったとき、こういうときKだったらどうしただろうと、ついつい考えてしまうのだ。

僕は一時、スーパーマーケットの品だしのアルバイトをしていた頃があったが、食品段ボールの角で指を切って血を流していたとき、なぜかKの顔を思い出していた。僕はあれからずい分かけ離れたところに来てしまったなと、親指の腹から流れ出てくる赤い液体を眺めながら思っていた。こんなことをたぶんKは一生知ることはないだろうと、分かっていながら。汚れたエプロンの袖でそれを拭った。染みは落ちなかった。僕は何事もなかったかのようにバックヤードの冷凍倉庫に戻った。

『ティファニーで朝食を』という小説がある。アメリカの作家トルーマン・カポーティが書いた中編小説だ。新潮文庫から出ている村上春樹訳のものを、僕は大学時代に何度も何度も読み返した。映画にもなっているくらいだから、小説に興味がなくともタイトルなら知っているひとも多いかと思う。オードリー・ヘップバーンがバゲットの包みを持ってニューヨーク五番街の道を横切って歩いてくる、あれだ。僕は洒落た人間でも何でもないし、ニューヨークの『N』の文字の欠片も持ち合わせていないような垢抜けない人間だけれど、僕はこの物語をはじめて読んだときに、頭を一発ガツンとぶん殴られたような衝撃があった。ここに出てくる登場人物たちは、僕が持っていないものをみんな持っていた。作家志望の主人公『僕』も、やたらと部屋を留守にしては(ホリーの部屋にはいつも『旅行中(トラヴェリング)』の札が掛かっている)わざわざ最上階のユニオシさんに鍵を借りに来る、女優の卵『ホリー・ゴライトリー』も、あるいは、きざなバーテンのジョー・ベルさんや、どもってばかりのマグ・ワイルドウッド、出来すぎ人間のホセ・イバラ・イェーガー(出来すぎたために別れることになるもの哀しい男)、「あの」O・J・バーマンに至るまで(ここはジョークだ)、みんな、ひとを惹きつけるような魅力があった。僕が持っていないものをすべて持っていながら、彼らは全員、何か自らの中で決定的に欠けているものを探しているような気がした。ひとが何かに夢中になるのは、その中に自分のあずかり知らない世界を目の当たりにしたときだ。国も時代も書かれた言語も背景も個性も信条も現実も虚構も、みな違う、あの百枚前後の頁の中には、僕が知らなかった、知りたかったことがすべてあった。

そんな小説に出会ってしまったのは大学二年の秋だった。夏休みが終わり、後期の授業がはじまった頃、僕は時々授業の合間を盗み見ては、ルーズリーフにまだお話にもならないお話を、書き殴るようになった。もちろん誰にも見られないように、きっちり教科書で隠し、慎重に最後尾の窓際の席を選んで。あるとき、フランス語の授業でKが髪を切って現れたときがあった。Kの仲良しの女子学生がKを見て、オードリー・ヘップバーンみたいだと、眼を丸くして冗談にはとれない口調で言った。Kが席から身を乗り出して振り返ったとき、僕は似合っている、と投げやり気味に一言だけ答えたと思う。その瞬間、僕にはKが小説の中から出てきたホリー・ゴライトリーのように見えた。

ただ現実の行く末はいつも失敗で終わる。それが僕の人生の常だった。風船は手元から離れれば上空に辿り着く前に簡単に割れる。僕は空想の赤い風船の紐をただ握っていただけの大道芸人と同じだった。

いまだから話すけれど、僕は、訳あって大学から姿をくらますことになった。理由はあまり言いたくないし、ここで話すつもりもない。大学三年のクリスマス以降、僕を見掛けた奴は学内にもいないし、学外にもいない。昔の高校時代の友人達の間では、僕は死んだ、ということになって笑い話の種になっていたらしい。そういう噂をあとで人づてに聞いた。誰にも話すことのできない、かなしいことが沢山あった。僕が訳の分からない地点から半年後に戻ってきたとき、かつての男子学生の旧友は僕の前ではっきりとこう言った。「お前は、暗くなった」。僕はそいつがいなくなってから、心の中でこう思っていた。「わけもなく暗くなる奴なんかいない」

学内から姿を消す、その三ヶ月前の秋にKは留学に行くことになった。僕は図書館で手紙を書いていた記憶がある。下手くそな文章で、読むに堪えない文章に何度も青いペンで斜線を引いて、Kとの待ち合わせの時間を待っていた。片手には駅前の書店で買った『ティファニーで朝食を』があった。ぎりぎりまで、僕がずっと持っていたもう一冊の『ティファニー』(傍点と線が山のように引いてある)を渡そうかと思ったけれど、結局は新品のものを渡した。留学の行先は、ホリー・ゴライトリーの行先と同じ、アフリカだった。Kは困っているひとが居たら地球の反対側まで行ってしまうような、とてもいい奴だった。その三ヶ月後に僕は消えることになっていた。切羽詰まった感情がずっと胸に渦巻いていたが、僕が思っていたのは、きっとKは僕が本気で追いかけていっても追いつかないところまで、走って行ってしまうだろうということだった。そしてKと僕はあらゆる点で真逆の方向を向いている、ということも。もう会うこともなくなるかもしれない、そういうことだけははっきりと勘付いていた。僕は図書館のベンチの前でKに本を渡した。僕が大事に思っていた本だから、持っていて、と僕は言った。覚えているだろうか? 最後の頁に僕は傍線を引いておいた。

(今ではきっと、彼にも名前が与えられているはずだ。そしてきっと猫は落ち着き場所をみつけることができたのだ。)ホリーの身にも同じことが起こっていればいいのだがと、僕は思う。それがアフリカの掘っ立て小屋であれ、何であれ。

いつまでたっても繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったと分かるんだ。

(『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ著 村上春樹訳 新潮文庫より引用)

飛行機が西の空に消えていく。僕はその飛行機雲をいつまでも眺め続けていた。窓のない部屋の中でもそれが見えるような気がした。Kが僕のことを忘れてしまったあとも、僕はずっとその思い出を大事に胸の奥にしまっておいた。吹けばすぐに飛んで消えてしまう、蝋燭に灯った灯火みたいに。僕はその青い火だけを見つめて暮らした。あとには苦い灰色の日々だけが残った。

僕が入り口も出口もない部屋から戻ってきた頃、Kはアフリカから飛行機で無事帰国した。最後の期間、Kとは殆ど喋る機会もなかった。フランス語の授業もなくなり、僕はKと顔を合わせる機会も口実もなかった。それに僕はもうKの前から姿を消した方がいいと、以前より強く思うようになった。会わせる顔もなかったし、僕はもう以前の僕ではなくなっていた。

最後に一度だけ、駅前のレストランで一緒に食事をした。僕はそのときには飲んでいた薬の副作用でぼろぼろになりかかっていた。それでもその日だけは、何とか気丈に明るく振る舞ってみせた。これがもう最後になるだろうと、僕には分かっていた。もう二度と会うこともない。Kは昔と変わらず、はじめてドーナツをひったくったときと同じような笑顔で笑っていた。それだけが救いだった。

帰り際、とうに陽の暮れた川縁の石段に座って、Kといくらか話をした。そして手を振って別れた。Kは僕に『頑張ってね』と言った。僕は頷いた。十字路の交差点で、二人とも振り返らなかった。それ以来、一度も顔を合わせていない。

Kは卒業後、誰もが知っている世界的な超一流企業に内定が出た。僕がMacではなくWindowsを使い続けているのはKのせいだ。僕はといえば、何処にもいく当てがなく、宙ぶらりんのまま、社会の底の底の底の方へ放り込まれてのたうちまわった。僕がこんな話をここでしているのは、Kに向かって交わした約束をまだ覚えているからだ。僕はそれを伝えるためにこの文章を書いている。

秋になるといつも思い出すことがある。十月の肌寒い風が通り過ぎていく度に忘れたことを思い出す。言わなければいけなかったことを僕は一言も言わなかった。指切りなんてするんじゃなかった。

Kへ。

あれから僕はものを書いて暮らした。約束通りの作家にはなれなかったけれど、ものかきになろうと努力はしている。いつか川縁でした、もうひとつの方の約束は守れそうにない。けれども、いままでの小説は、すべて君のために書いた。

この文章を君が読むことはないだろう。そう分かっていても、僕は何度でも物語を書く。届かない手紙の代わりに、瓶に詰めた言葉を何回も何回も、広い広い海に向かって投げ込む、諦めの悪い奴みたいに。僕はそういうことをずっと繰り返して生きてきた。いつか何処かの街の浜辺で拾ってくれるように。名前を付けられなかった迷い猫が、いつか落ち着く場所を見つけるみたいに。言いたかったことは、すべて小説の中に残してある。

いまから八年前の十月十日、秋の学祭を途中で抜け出して、誕生日を祝うために同じテーブル席に着いた瞬間を、まだ覚えているだろうか。暮れていこうとする陽差しを背に、君が贈り物の包みを開けようとしている、まさにそのときが、僕の人生の中で最も幸福な瞬間だったと、いまでも時々振り返っては思い出す。

君はその日の午後、眩い陽のひかりに包まれて笑っていた。

いまの僕はもう一度笑えるようになった。少なくとも君のように笑おうとはしている。

二十九回目の誕生日おめでとう。

ハッピー・バースデー、K。

僕はもの書きになるよ。

2020.10.10.

Warm regards.

kazuma