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一馬日報(手記) 文芸活動記録

どっちでもいい、っていう話

おはようございます、kazumaです。今日は近況から。
いまは在宅ライターの手続き中で、本採用で働き始めるまでもう少しの猶予期間がある。小説は先月末に書き上げたばかりで、できたものをAmazon Kindleストアで発売した。一応、一年分の区切りはついたのでこれでよかったと思う。昨日の朝、たまたま僕の新刊にレビューが付いているのをみつけた。誰だか僕は知らないが、そこにはこう書かれてあった。

『もう少し平易な文体が望ましい。レトリックは目的ではなく手段であるということを忘れているのではないだろうか』

星は二つだった。僕がそのことをTwitterで呟くと、なぜかはわからないがレビューが消え、二つ星も消滅した。内容にはまったく触れられずに、ただ文体というタイトルだけが付いていた。そのレビューを読み終わってからけっこう疑問が残った。

批判そのものは悪いことではない。以前、文学学校にいたときに、僕が書いたものに全員がバツを付けたこともあるし、なんならその席で、ほとんど小説も書いたことがないような学生に面と向かって罵倒されたこともあるし(なんであなたはこんなものを書いているんですか、と言って怒りながら席を立ち、僕の原稿を捨てて去っていった)、こんな表現は使っちゃダメだって諌められたこともあるし(小説内で『使っちゃいけない表現』なんてあるんですかね? 知らなかった)、君は書き慣れてはいるが読むひとの気持ちがわかってない、つまるところ空っぽだと言われたこともある。そのわりには、みんながマルをつけた、っていう小説が、別にそこまで面白くもなんともないのだ。誰もが分かるような面白さって面白いんだろうか。僕はあんまりそうは思わないタイプだ。

もう少し平易な文章が『望ましい』ってこのレビューを書いたひとは言った。小説に『望ましい』表現なんてあるんだろうか。もし仮に読者にとってすべてが『望ましい』形でできているような本があったら、僕はたぶん壁に叩きつけて捨てるし、破って燃やしてもいい。穴を掘って二度とは出てこないように砂浜に埋めてもいい。たぶんその本はすべてが自分の理解できる範疇のなかにぴったり収まっていて、ちっとも面白くはないだろうから。少なくともそれは僕の思っている面白さとは違う。

『望ましい』っていうのは、そのひとにとって『望ましい』小説、だと思う。単純に僕の言い回しがいちいち気に入らなくて読めたもんじゃなかったです、金返せってストレートに書いてもらった方がむしろありがたかった。

ほんとうに伝えたいことはその中に書かれてあることの方なのに、毎回毎回書き方ばかりを指摘される。音楽やスポーツなんかと一緒で、ここは抑えて弾くところ、とか、半音ズレてる、あんたは走ってるとか、ボールの扱いがうまければそれでいい、とか、ディフェンスラインを下げるなとか、フォワードは得点さえ取れればいい、それでなんでも許される、みたいなのはぼくはきらいだ。そんなのほんとのところはどうでもいいじゃんね、と思っている。自分ではこういう風に弾いてみたい、楽譜には書いてないし、先輩にもあまりいい顔をされないけど、こう弾きたい。ボールを受けるときには半身でっていうけど、後ろから一直線に受けにいったらどうなるだろう。でもそれはルールブックや定石みたいなところには書いていない。あっ先輩がキレた、早くラインに戻れって言ってる。でもやってみたい。試したい。

僕はその形式がいちいち要求してくるものがきらいなんだと思う。それらの忠告に従えば、おそらくみんなが面白いって思うものに、読みものに近づいてくるんだろうけど、そういう忠告みたいなものでひとつひとつレンガのお城を作っても、結局のところ、行き着く先はあまりにもよくでき過ぎたクラシック音楽みたいに、聞いててなんだか眠くなってくるんじゃないだろうか。で、だからなんなの? その忠告だけでできたお城の中で、あなたはどこにいるの? っていう風に。

そもそもレトリックが目的ではなくて手段だなんて誰が決めたの? 小説にそんな決まりごとなんてありましたっけ。それを破ったらもうその小説はダメなわけ? レトリックが手段ではなくて目的だったとして、それを面白いと感じるひともいるかもよ、って僕はあまのじゃくだから思うんですけどね。

何でもかんでも読者に合わせて、何を聞いてもまずひと言目に読者ありきっていうのは、何だか僕はちょっと嘘くさいなと思っている。そういうのをありがたがるのって経済思想みたいなものが根っこに植わっちゃってるんじゃないの、全ての文章をお客様ファーストでやれば本は売れるかもしれないけど、それで書き手が小説の中でやりたいことまで潰しちゃったら、諦めちゃったら、なにが書きたいかわからなくなっちゃったら、そいつが書いている意味なんてあんのって思う。そんなもんなくてもいいってんなら、別にいいけど。

勝手に小説のルール決めをして、線引きをして自分の定義に当てはめて、その中から外れた小説を裁く。あちらはよくて、こちらは悪い。これは優れているけれど、あれは優れていない。自分のなかから出たものではない、過去の作家や有名な作家を持ち出して、それで自分を権威づけたつもりになって、踏ん反り帰って何もかもを見下ろす。それ全部どうでもいいじゃんねって思う。そんなに言うんなら、じゃああんたが自分で書いてみれば、って思う。

どっちでもいいよ、そんなの。どっちでもいいんだから、好きなものを選んだらいいんじゃないかって思う。

僕は文学学校にいたとき、自分でひとつだけ決め事をしていた。もし誰かの作品を読んで意見を言う時は、必ず悪いところだけではなく、良いところも言った。もちろん、意見を言うときにはこれは僕が勝手に定義づけた枠組みのなかだけで善し悪しを言ってることもわかっていた。誰だってまあそう言う風にしか意見は言えない。でも、たとえどんな小説であれ、ペンの先から生まれてきたものを大事に思う気持ちは知っている。だって僕は書き手だから。どんなにひどいと思えるような小説の中にも、いいと思えるものが必ず混じって隠れていて、一文字一句のすべてが駄目な小説なんて、この世には存在しないと思っている。

それに今回は駄目だった、と書き手が思ったとしても、また次を書けばいい。だからもし、誰かに何か意見を言われたときは、それだけがすべてだなんて思う必要はまったくない。相手の言うことを鵜呑みにするだけなら洗脳と同じだ。それで仮に言った相手にとっていい小説が書けたとしても、自分が面白くないなって思う小説なんて書きたくないだろ。どっちでもいいよ、それを許すだけの懐が小説にははじめから備わっていると思う。だからペンを執ったのだから。

kazuma

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