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読書録:もの書きの理想の暮らしを、シェイクスピア&カンパニー書店の中に見る。

物書きに優しい書店、それがシェイクスピア&カンパニー書店。

 こんばんは、kazumaです。今日は最近読んだ、一冊の本をご紹介したいと思う。河出書房新社の文庫から刊行されている『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』という本だ。この本は僕が去年に読んだ本の中でも三本の指に入るほど気に入った本なので、ぜひともレビューを書きたい気持ちになった。昔、小説について教わったひとがいて、読んだ本については必ず読みっぱなしにするのではなくて、自分なりに書き出した方がよいとアドバイスをいただいていたこともあり、久しぶりに読書録としてつけておく。このブログ(kazumawords.)では初じゃないかな。

 舞台はパリ左岸に店を構える伝説的書店、シェイクスピア&カンパニー書店。ここはかつてヘミングウェイ(『移動祝祭日」の中にもこの書店の記述がある)やパリ滞在中であったフィッツジェラルドといった蒼々たる顔ぶれが集い、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を出版したという、もの書きの聖地とも呼べる書店である(何とJ・D・サリンジャーからの書簡さえあった)。そんなエピソードに事欠かないこの書店が地球上に現存していること自体が奇跡といってよい。たぶん、どの時代のどんな地域を見渡したって、こんな書店は未だかつて存在したことはなかっただろう。

 Twitterのフォロワーさんと話していて気付いたが、この書店は『ミッドナイト・イン・パリ』という名作映画に出てくる正にその舞台でもある。1920年代のパリにタイムスリップし、そこで作家志望の青年ギルは、アンティークカーに乗って名だたる芸術家たちとともに夜を過ごす。ウディ・アレンの映画で、こちらもかなりそそられる内容になっているので、興味のある方は見て損はないと思う。因みにこちらの映画に出てくるのは、初代シェイクスピア&カンパニー書店、シルヴィア・ビーチという人物が店主としてやっていた頃の話であり、今回の小説はそのあと、更に時代をくだって別の人物が新たに作った二代目(改名)シェイクスピア&カンパニー書店が舞台となっている。いうなれば、オリジナルの歴史ある書店を継承して作られた名店の、現代にまで続く物語である。

 さて本題に入ると、この書店の二代目店主であるジョージは、若い頃は世界を放浪し、貨物輸送船に乗り込んではあちこちを旅していた。のちのシェイクスピアカンパニー書店の運営方針の中に、こんなものがある。『与えられるものは与え、必要なものは取れ』、これはマルクス主義の標榜だが、学生時代にジョージはコミュニズム(共産主義)思想に傾倒しており、そのユートピアとなるような書店を作ろうとジョージは画策した。戦争の折、軍基地に勤めながら、ジョージ個人としては最初の書店、トーントン・ブックラウンジを開く。「本を読まないのは、読み方を知らないより悪い」と宣言して。その後、除隊通知を受けたジョージはフランスで援助活動のボランティアを行うために渡仏した。ソルボンヌ大学の講義に通い、サン=ミシェル大通りのホテルの安部屋で暮らすようになった彼の部屋には、苦心してかき集めてきた金で買った英語書籍のコレクションがあり、当時、ドイツ占領下からようやく解放されたこの街では、彼の部屋が臨時図書館になっていた。毎週何十冊もの本がパリの人々に貸し出され、実はこの部屋での暮らしが、のちのシェイクスピアカンパニー書店を開くきっかけとなる。
 

オテル・ド・スエズで暮らしはじめて間もない頃、部屋の鍵をなくし、ドアに鍵をかけるのをやめた。ある日、授業から戻ると、見知らぬひとが二人、部屋の中で彼の本を読んでいた。財産の共有と共同生活を信奉する彼は感激した。ただひとつ残念だったのは、コーヒーぐらいしか出せるものがなかったことだ。それ以来、訪れるひとのためにいつもパンとスープを用意しておくようになった。

『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』ジェレミー・マーサー著 市川恵里訳

 そして1951年8月、戦後パリが復興していく中で、有金の二千ドルをはたいて、書店に賭ける決心をし、ル=ミストラルという名前の書店をはじめ、これがのちにジョージが五十歳の誕生日を祝って、その一年後にシェイクスピア生誕四百周年となる年に、シェイクスピア&カンパニー書店へと名を改めた。そしてかつてパリにあった伝説的書店を営んでいた、店主シルヴィア・ビーチと親交のあった彼は、その屋号を受け継ぐのである。
 
 ここまでがジョージの作った二代目シェイクスピアカンパニー書店が出来上がった簡略ないきさつである。そしてカナダ生まれの生粋のジャーナリストであり、この本の著者であるジェレミー・マーサーが、どういうことの運びか、カナダから真反対の位置にあるようなパリにあるこの書店に訪れて暮らすようになり、奇人変人変わり者浮浪者、芸術を志すものなら誰でも大歓迎といった様相を呈しているこの不思議な人間模様の中で、いかにものを書くようになっていったか、この一時期を直接目にしてきたことばで語られるというところに本書の醍醐味がある。
 
 僕が一番この本のなかでびっくりしたことは何かっていうと、これが「実話」である、ということだ。この本を僕が手に取った経緯についてちょっと話すと、たまたま病院の待ち時間がかなりあって、本屋で時間を潰そうと思っていたときだった。僕は新刊で本を買うということを一時期あまりやっていなかったことがある(だいたい必要な本は古本屋の売台の中に見つかった。新刊を巡るサイクルと古本を巡るサイクルが交互に来るのだ)。

 とはいえ、手持ちの本を鞄に入れて持ってくるのも偶然忘れていたし、暇を持て余した僕は、百貨店の中にあるチェーン系列の書店にふらりと立ち寄った。百貨店の中の中型店舗ということで本の品揃えは結構あった。その中でも、僕は海外文庫を扱っている棚の辺りをよく周回する。とくに河出文庫や新潮社、白水社の本がわりと僕にはクリーンヒットするので(おそらく読書人によって相性の良い版元の本があるのだろう。僕は河出文庫の海外小説棚がいちばん好きだ)、そのあたりの背表紙を端から見ていった、たぶん何かの拍子に棚から眼を逸らしたときだったと思う、たまたま数多くの文芸書に囲まれて、この本が平積みされているのを見た。直感的に気になってしまって、僕はそこから数頁読み、値段を見て一度棚に戻し、ちょっとだけその辺りをうろついて、またその本の前に戻ってきた。ぼくは結局この本の会計を済ませた。この本は架空のシェイクスピア&カンパニー書店という物語の世界の中にある物書きたちの話なんだろうと思って。そのとき、僕はこの書店についてほとんど何もしらなかった。『ミッドナイトインパリ』の映画や、『移動祝祭日』の小説で触れていたことを知るのはあとになってからだ。本の頁を開くと、パリの伝説的書店に自然と集ってくる物書きのコミュニティの話に、期待を膨らませてわくわくしながら読んだ。店の前で通りに立ち、観光客相手に店の奥にあった古めかしいタイプライターなんかを持ち出してきて『短編小説売ります、一ページ十フラン。タイプミス無料』なんていう粋な描写を見つけたときには、思わずにこりとせずにはいられなくなった。読んで貰えばわかるが、物書き同士が集うような場が実際のパリ通りの書店の中にあり、そこで誰もが店の手伝いをすれば寝泊まりすることができ、毎週日曜の朝には店主自ら不器用なパンケーキを振る舞い、あの本を読めこの本を読め、と分厚い本の背表紙で引っ叩いてくれるジョージがいる店など、この地球上のどこを探しても、ここ以外にはないのだ。
 そしてこの一連の出来事すべてがフィクションであると思って読んでいた僕は(それは百貨店のエレベーターの昇りボタンを押したときからはじまっていた誤読であったが)、最後の最後、これがただのフィクションではなく、ノンフィクションであったことをあとがきを読んで知った。ほんとうにこの物語が現実にあったという驚きが、僕の頭の中に渦巻いていた。
 
 僕はほとんどずっとぼっちで文芸活動をやってきたし、その時々で関わったひとはいるにせよ、こういう物書きが自然と集まるような場にはお目にかかったことがない。その昔、芥川らがいた昭和の時代には田端文士村や馬込文士村があったが、そこではきっと日常的に文学的な話が交わされていたのだろうかと思うと、少し想像を巡らせてみたくなる。とはいえ、シェイクスピア&カンパニー書店ほど大衆に開かれたものではなかったろう。

 この前、偶然手にした高村光一というひとの『芥川龍之介』という古本の中にその当時の芥川の周辺の動きみたいなものが描かれていて、そういう集まりも結局は小さな文壇のようなものではなかったろうかと思う。名だたる作家たちが同時代に存在していて、あとから見ればそれは華やかなエピソード、あるいは人間味のある挿話として映るかもしれないが、物書きはつまるところ書き残したものがすべてで、ペンを執って白紙の前に立つのは、一文字も書かれていないスクリーンに向かってタイピングしはじめる瞬間というのは、どこまで行ってもひとりで、そこにごまかしは利かなくて、今までに誰と会って何を話して何を考えて、そんなことはどうでもよいところで話しはじめなくてはならなくて。

 もう少し前の自分だったら、小説を話すことのできる居場所みたいなものがあればいいなと考えていたが、人生がのっぴきならないところまで来ると、居場所云々の問題どころではなくなってしまった。僕はずっと学生時代から持病を抱えていて、ほんとうはこの物語の中にあったように直接的な関わりの中から創作のヒントを見つけたり、誰かが好きな小説の話について聴いてみたりしたいけれど、やはり僕の方でうまく話せない事情があって、こうしてオンラインの活動のみにとどめている。そう考えると、シェイクスピアカンパニー書店がやったこと、ジョージがやったことがどれだけ稀有なことか気が付く。居場所のない物書きに居場所を作り、一時的な住処を与え、その中でみな何かを見つけては巣立っていく。そういうことはある種の信念や思想や決心なしには到底続けられるものではない。僕の本分はものを書くということで、そういう場を作り上げたり持続させるほどのジョージのような人間的な器も度量も欠けている。もの書きはどれだけ徒党を組んだところで徹頭徹尾ひとりで、それを了解した上で、はじめて小説の話ができるのではないかと思う。だから僕はここやネット上のどこかでひとりでタイプした文章を発信を続けている。その中でも小説はたぶんこの世でいちばん孤独なコミュニケーションだ。
 
 今日はここまで。また書く。
 
 kazuma
 
 2021/02/23 
 
 余談:今回はiPadを使って記事を作成した。ブログ記事程度の文章であれば、これでいけると分かった。前まではポメラで打った文章を移していたが、今後はipadでもやってみようと思う。アプリ(エディタ)はiAwriterを導入した。とりあえずiOS間で文書移行の手間がないので楽である。タイピングも集中しやすかった。教えてくれた方に感謝です。あとタイプライター(風)キーボードがめっちゃ欲しい、今日この頃。記事のアップが遅くなって申し訳なかった。ちょっといま身辺が立て込んでおりますので、駆け足でお送りしました。またね。

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